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3-4.コミュニケーション問題

阿蘭陀通詞おらんだつうじ

日本人は、オランダ人とどう意思疎通したのでしょうか。言語の問題を少し説明します。

ポルトガル人は、キリスト教の宣教という目的があったため、日本語の習得に熱心でした。ですから、商売上の通訳としても大いに活躍でき、必須の存在であったことは前述しました。そうして、日本人もポルトガル語を学んでいきました。日葡(ポルトガルは漢字で葡萄牙と書く)のバイリンガルが日本人の中でも重要な存在だったのです。

(日本語の辞典はポルトガル人によって初めて作られ、それがスペイン語、ラテン語、フランス語へと訳され、ヨーロッパ人の日本語学習における礎となったことは前述しました。「1-16.信長と宣教師たち」

オランダ人と、日本人の間でのコミュニケーションは当初はポルトガル語でした。したがって、日本向けの商船にはポルトガル語に堪能な人間が必ず乗っていました。平戸に商館が築かれてから出島に移るまで(33年間)は、新しいオランダ語よりも、従来のポルトガル語が色濃く残っていたといいます(出所:「阿蘭陀通詞/片桐一男」P34)。

しかし、出島へ移ってからは、オランダ人の滞在の条件が格段に厳しくなり、オランダ人に対しては日本語を習得させない方策が取られることなります。そのためオランダ語専門の通訳(阿蘭陀通詞)の養成が急務となりました。彼らは長崎の町人身分でしたが、長崎奉行の支配下にあり、そこから給料をもらって、通訳の他に貿易実務をこなし、商館長の面倒をみるまでの仕事をこなしていました。試験が行われて、レベルの保持、底上げも絶えずおこなわれてもいました。のちの「蘭学」の隆盛は、彼らの礎があってこそのものでした。

実学

長崎には阿蘭陀通詞のほか、唐通詞(中国語通訳)がおかれ、前者の試験は「蛮書・蛮語の和解」、後者は「詩作・唐和・小説等」が課題でした。唐通詞は、中国から渡ってきた人間の子孫が多く、しかも筆談であれば意思疎通はほぼ完璧にできたため、中国語の語彙をどれだけ知っているかが試された試験だったと思います。一方の阿蘭陀通詞は、外国人の話す言葉がオランダ語なのかを「聞き分けられる能力」、提出されたオランダ語の書類を「読める、訳せる能力」、そして日本語を「蘭訳でき、書ける能力」が必須のものでした(出所:「阿蘭陀通詞/片桐一男」P18〜30)。

結果論になりますが、日本人が最初に学んだ西洋の言葉が「オランダ語」であったことは、のちの日本の科学(医学含む)技術の知識習得に、非常に大きなメリットを与えることになります。後述します。

タイトル画像出所:国立国会図書館https://www.ndl.go.jp/nichiran/data/R/090/090-005r.html

続く


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