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4-11.異国船対応の転換

イギリス船フェートン号

北でロシアへ向けた緊張が高まっていた頃、1808年にオランダ国旗を掲げた船が長崎湾内に入ってきました。船に商館員オランダ人2名が乗り込むと、彼らを人質にとり、同時にオランダ国旗をさげて、イギリス国旗を掲げました。オランダ船を装ったイギリス船でした。イギリス船は人質と交換に水や食糧の提供を要求しました。

ヨーロッパでのいわゆる「ナポレオン戦争」の余波でした。オランダ本国は1795年にフランス革命軍に占領され、革命軍は「バタヴィア共和国」を宣言。それは、イギリスにとって敵対するフランスと一体とみなされ、オランダの持つ植民地への攻撃の口実を得ることになりました。同共和国は1806年に、ナポレオン・ボナパルトの弟、ルイ・ボナパルトが王として送り込まれ「王国」となりますが、1810年にはフランスに併合されてしまいます。イギリスは、マカオにいたイギリス船を長崎へ送り、オランダの国旗を引きずり下ろそうとしたのです。

長崎奉行の失態

長崎奉行は大慌てしたと思います。急ぎ防備を固めるために、警備担当諸藩に出兵を命じますが、佐賀藩は、無断で兵力を大幅に削減していたことが判明します。そのため、所用兵力を賄うために、長崎奉行は薩摩、熊本藩などの応援を求め、湾内のイギリス船を焼き払う計画をたてますが、イギリス船は望むものを手に入れ、人質も開放して、僅か二日後には去って行きました。

人的、物的被害はほとんどなかった事件ですが、事件後、長崎奉行は「国威を貶めた」として自害、無断で警備兵力を減らしていた佐賀藩の家老数人も切腹、藩主も100日間の謹慎という処分を下されます。また、これをきっかけに、日本の朝野で「反英論」が根強くなりました(出所:「幕末外交と開国/加藤祐三」P32)。また、佐賀藩はこのあと、藩をあげて軍備の近代化を図るようになり、それが幕末になり討幕軍の貴重な戦力となっていくのです。

英語通詞の養成

一方で、この事件後幕府は、長崎奉行に対し英語通詞の養成を指示します。教師役は英語のできるオランダ商館員でした。1809年、14名のオランダ通詞が英語の学習を開始します。1810年には「諳厄利亜語(あんげりあご)和解」の第1冊が完成し、1814年には日本初の英和辞典「諳厄利亜語林大成」15巻を完成させています。このスピードは驚異的です。単に命令されたからというだけではなく、新たな言葉の習得という知識欲、そして異国(この場合はイギリス)への危機感が相当強くあったことが推測されます。約6000語が収録されており、発音がカタカナで記されてはいましたが、オランダ人から習った発音であったため、正確とは言い難いものでした。

異国船打払令

イギリスの民間船の来航は続き、1818年には、アメリカへ向かう途中の商船、1822年には、捕鯨船が浦賀沖に来航します。ともに上陸をさせずに周りを小舟で囲む(垣船かきぶねとよばれる)処置をとり追い返しました。しかし、1824年には大津浜(現茨城県北茨城市)と、トカラ列島の宝島(現鹿児島県鹿児島郡十島村)に捕鯨船員が上陸するという事件がおこりました。特に後者では、上陸した船員が発砲して牛を奪うことをしており、警備の番兵も応戦、船員1名を射殺して追い払っています(出所:「幕末/上白石実」P85)。

幕府は、これらのイギリス船来航をきっかけに、異国船に対する扱いを大きく転換することになります。それが、1825年に出された「異国船打払令」です。「無二念打払令」とも呼ばれるように、「とにかく追い払え」というものです。近づくことも一切まかりならんとしたわけで、これまでとは異なる強硬なものでした。

続く


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