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5-1.モリソン号事件

正体不明の船

1837年7月、突如江戸湾(三浦半島城ヶ島沖合)に1隻の船が現れました。この時点ではどこの船なのかは不明です。沿岸の警備諸藩は、「異国船打払令」にしたがい、海岸から砲撃を加えました。そのうちの1発が船体に命中しますが、当時の日本の砲弾は、炸裂はしません。ただ鉄の塊がその物理的な力によってダメージを与えるだけでしたので、船に大きな被害はでず、その船は江戸湾から出て行きました。船が次に向かった先は鹿児島湾でした。しかし、ここでも薩摩藩から砲撃を加えられ、そのまま帰って行きます。

正体判明

この翌年、オランダ風説書によってその船の正体と、日本への来航目的が明らかになりました。それによれば、「船はイギリス船、来航目的は日本人漂流民の返還」「人道的な来航にもかかわらず、有無も言わせずに2度も砲撃された」という、シンガポールで発行されている新聞記事の情報を伝えたものでした。その船(モリソン号)に乗っていた日本人漂流民は、北米海岸に漂着した志摩鳥羽(現三重県鳥羽市)の岩吉、久吉、音吉、フィリピンに漂着した肥後天草(現熊本県天草市)の庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松の計七名でした。彼らはマカオを出港して日本へ向かいましたが、追い返され、帰国できぬままマカオに戻ります。

意見囂々

この新情報によって、長崎奉行は「再度漂流民を連れてくるようにオランダ船に伝達させたらどうか」というお伺いを幕府に提出しました。幕府内で意見が分かれます。強硬派は「従来どおり打払令を励行し、漂流民の再送還依頼も無用」、穏健派は「再送還依頼をオランダ船に伝達し、賤しい船乗りであっても日本人なのだから助けるべき。そもそもなんでもかんでも打ち払ってしまっては、異国船の来航目的がわからなくなる」と、暗に「打払令」を批判する内容を含んでいました。最終的に、穏健派の意見が取り入れられ、幕府は彼らの再送還を翌年のオランダ船にて伝達することに決着しました。

モリソン号、真の来航目的

18世紀後半から、北太平洋にはイギリスやフランス、ロシアの船が盛んに活動し、中国への航海途上にある日本に対して、熱い視線が向けられていました。同船が日本に向けて出航したのには、イギリス、アメリカの共通の思惑があったのです。それは、漂流民の送還を契機として日本を「開かせる」ことでした

漂流民らはアメリカからイギリスへ渡った

志摩鳥羽の岩吉ら3人がアメリカ北西部のアラヴァ岬(現カナダとの国境付近)に漂着したのは1834年初めでした。当時のアメリカ北西部は、オレゴンテリトリーと呼ばれ、イギリスと領有権を争っていましたが、そこに住んでいたのはアメリカインディアンです。現地住民が「3人の中国人」を捕まえた」という話が、「ハドソンベイ・カンパニー」に伝わりました。同社は、ラッコの毛皮を中心に扱うイギリスの特許状を受けた独占貿易会社です(対東インド貿易を独占してきた東インド会社の独占権は1834年に廃止され、各商社の自由競争となっていました。したがって、対日貿易も参入は自由でした。ちなみに、有名なアダム・スミスの「国富論」は1776年に出版されており、約半世紀を経て彼の理論が政策に取り入れられたともいえます。

同社は、現地でその3人を毛皮と交換して救出しました。しかし、助け出した3人は中国人ではなく日本人だということがわかります。同社は、日本と通商を開くために、その3人を使おうとしたのです。彼らは、1834年11月にアメリカから出港し、ハワイ経由でロンドンまで連れて行かれます。政府から対日貿易交渉の全面支援を得ようと目論んだからですが、支援は拒否されます。イギリスは対日貿易の再開(1613年に日本に東インド会社の拠点建設、オランダ東インド会社との商売競争にやぶれて1623年に日本から撤退)には大いに関心がありながら、その頃清と間で関係が悪化していたため、それどころではなかったのです(出所:「『蛮社の獄』のすべて/田中弘之」P180)。

ロンドンからマカオへ

同社は、政府から何の支援も得られないまま、再びアジアへ向けて出航し、マカオに1835年12月に到着します。マカオは、1553年にポルトガルが明から居住を許可されていらい、変わらずポルトガルのアジア貿易の拠点となっていました。とはいえ、最大の顧客であった日本から締め出された後は、対アジア貿易よりも、南米ブラジルの植民地開発に注力していました。当時、ポルトガルはイギリスと友好関係にあり、当時のマカオには、イギリスの宣教師(カトリックではなく、プロテスタント)が中国への布教を目的に滞在していました。マカオに到着した3名は、そこで宣教師から英語を学び、聖書の翻訳作業の手伝いをすることになります。

宣教師。
彼らが15世紀末から歴史の上で果たした役割を考えると、その大きさに驚かざるを得ません。商売の先鋒役であった貿易特許会社とともに活動し、現地住民への布教のために現地語を覚え、しかも命を落とす危険もあった上での活動です。日葡(日本・ポルトガル)辞書を作ったのもポルトガル人の宣教師だったことは前述しました。ペリー艦隊とともに日本にやってきた中国語通訳も宣教師でした。その使命感と情熱は、歴史の上で重要な非常に重要な役割を担っていたといえます。

3名の漂流民は、マカオで別の日本人漂流民と合流することになります。

続く





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