見出し画像

桜の時期、多くの日本人が気もそぞろになる。「いつ咲くのか」と、心待ちにし、咲けば咲いたで「いつ散ってしまうのか」と・・・。

「世の中にたえて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし」在原業平

折口信夫しのぶと柳田国男の哀しみ

柳田国雄の高弟であった折口信夫(詩人釈迢空の名前でも知られる)は、昭和の初めころから、大学の卒業生が記念に歌を書いてほしいといって、色紙や短冊を差し出すと、華やぎと別れの気分を詠んだ

桜の花ちりぢりにしも
わかれ行く 遠きひとり
と 君もなりなむ

という歌を書くのが常だった。ところが、昭和10年代後半になり、卒業した者が軍隊や戦場に出ていくころになってからは、折口はこの歌を書かなくなった。そして、戦後の折口は桜はさみしい花だと言って、桜の季節になると、心がふさいでたまらない様子であったという。

また、折口の師であった柳田も、戦後間もない昭和23〜4年頃、折口に向かってこう話したという。

「ねえ折口君、日本人は戦の場でいさぎよく死ぬことを誇りとして、死を恐れない。ちょうど桜の花が一夜に美しく散るように、命を散らすことを民族の誇りにしてきたことがあって、こんどの戦争でもしきりに桜をいろんな引き合いに出して、若者たちに命を惜しむなということを言って励ましたり、いましめたりした。しかしよく考えると、これほど命を軽く考える民族は世界でもあまり類がないように思われる。(中略)これから一体こういう民族はどうなるのだろう。あなたはどう思いますか」

問われた折口は何も答えず、そして2人は暗い顔のまましばらく考えこんいたらしい。折口も柳田と同様のことを前々から考えていたのだろうことがわかる(ここまで出所:「悲歌の時代/岡野弘彦」P155〜157)

同期の桜

咲いた花なら散るのは覚悟
みごと散りましょ国のため

この歌詞など、柳田のいった「桜を引き合いにだして」の最たるものかもしれない。また、これほど人口に膾炙した「軍歌」もないのではないかと私は思う。

この歌は、昭和14年に発売された「戦友の唄」というメロディに、海軍兵学校生徒が、歌詞を変えて歌ったのがその最初で、昭和19年の半ば頃から海軍内部で瞬く間に広がったらしい(出所:「昭和軍歌・軍国歌謡の歴史/菊池清麿」P483)。

思い出

私は幼い頃に、昭和5年生まれだった母から「軍歌」をよく教わった。だから、今でも少ないそれを歌うことができる。私にそれを教えてくれた母親に「外で歌ってはだめ」と言われたことをよく覚えている。その理由がわかったのは、それから10数年もたってからのことだ。

ネットもない時代、母親もうろ覚えだった軍歌の歌詞を正してくれたのは、父親が料亭で時おりもらってきていた名刺サイズくらいの小さな歌集だった。そこには実に多くの軍歌が収められていたのをよく覚えている。昭和40年はじめ頃のこと、戦中派が酒を酌み交わしながら歌ったのが軍歌だったからだろう。「同期の桜」をはじめとして、私が教わった軍歌のメロディは悲しいものが多かった。

ダンチョネ節

八代亜紀「舟唄」に、「沖の鴎に深酒させてよ」から始まり「ダンチョネ」で終わる一節があるが、これも軍歌としてよく歌われていたと父親(昭和2年生まれ)が話してくれた。

沖の鴎と飛行機乗りはヨ
どこで死ぬやらネ 果てるやら
ダンチョね

確か、こんな歌詞だった。父親は、「メロディは同じでも、八代亜紀が歌うようなスローなテンポではなく、もっと軽快で早いテンポで歌われていて、あれはあれで心が奮いたった」と話していた。「ダンチョネ」は「断腸ね」の意味で歌っていたとも。

散る桜 残る桜も 散る桜

冒頭に挙げた折口・柳田両氏と、刻み込まれた深さは違えども、私も桜をみると、その美しさ・華やかさに心を奪われはする一方で、そこに自らの運命を仮託したかつての多くの日本人(圧倒的に若者)のことが浮かんでしまって、心が痛んでしまう。両親が他界してからはいっそうそれが強くなった。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?