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7-15.物資補給問題と軍艦発注

ロシア艦隊への物資補給問題

この滞在時、長崎には新たな問題が持ち上がり、それもクルチウスなしでは解決できない問題でした。

それはロシア艦隊への物資の補給問題です。ロシア艦隊は日本からの補給品の代金を支払うと主張したのです。「薪水給与令」で定められた内容は、補給品は全て幕府が贈与としておこない、それに伴う金銭の授受は発生させない(それを伴えば、交易・通商になる)ということとと対立したのです。

ロシア側からすれば、国から派遣された正式な使節であり、「贈与品」としての補給など受け入れらなかったわけです。そもそも、「薪水給与令」の対象は、漂流・難破船などです。長期にわたり滞留することを想定しておらず、定期的な物資補給など考えてもいませんでした。それを解決したのが、オランダ商館を仲介とした物資補給のシステムでした。長崎奉行からの提案をクルチウスが承諾したのです。

これは、ロシアからの必要物資の注文をオランダが引き受け(ただし、日本人が立ち合い)、オランダは奉行に許可を得たのちに、商館の契約商人からそれを入手してロシアへ引き渡す。日本は、ロシアからの注文をオランダへ売るかたちをとったのです。ロシアは、その代金を本国経由でオランダ本国へ支払うかたちとなります。これはロシアからも承諾され、このシステムでロシアへの補給物資の供給が行なわれるようになり、日本、ロシア双方の体面が保たれることになりました。

※このシステムが稼働しだすと、ロシアは滞在に必要な物資以外のもの(漆器などの日本の工芸品)を注文するようになり、それを認めない日本との間でいざこざがあった。間にたったクルチウスは双方の板挟みになり苦しい立場に立たされた(出所:「幕末出島未公開文書」P58)。

オランダへの軍艦発注

長崎から江戸へ出張していた通詞の森山栄之助は、ロシア艦隊来航の報を受けて、9月26日に長崎へ戻ってきました。以降、森山が交渉の通訳を務めます。その2日後、新任長崎奉行水野忠徳ただのりが長崎へ到着します。水野が江戸を出発した際にはロシアの来航を知りません。水野は、オランダへの軍艦発注の命を受けていました。通常は、新任奉行の着任をもって前奉行は江戸へ帰りますが、対ロシア問題が片付くまで、それまでの大沢、新任の水野の2人の奉行体制となりました。

また、11月初旬には、江戸において対ロシアの応接掛に筒井正憲まさのり(大目付)、川路聖謨としあきら(海防掛勘定奉行)が任命され、長崎へ向かうことになります。

新任奉行水野は、10月15日クルチウスに対して「幕府の洋式海軍創設に関しての意見書」を提出するよう、クルチウスに依頼しました。特に「オランダ国王からの援助を得られるか否か」についてのクルチウスの意見を求めていました。前述したように幕府は、既に「大型船建造・所有」を諸藩(外様含む)に許可する通達を出しています。薩摩藩は、これを受けて蒸気船3隻を含む12隻の大型船を建造することの伺いを出しています(出所:「幕末外交と開国/加藤祐三」P113)。薩摩藩のそれは、諸藩の中で群を抜く大規模なものでした。幕府はもちろん、薩摩藩などの諸藩の頼る先もオランダ商館しかありません。この時、オランダという存在が身近にあったことは、日本にとって、とても幸運なことだったと言わざるを得ません。

さまざまな問題の存在に気づく

クルチウスは、軍艦を購入する、製造するといっても、そこには解決すべき様々な問題があることを指摘しています。例えば、操船や蒸気機関を扱う技術の習得がなければ、船を動かすことができない。それを教える教官を、仮にオランダから派遣した場合、現状の決まりでは彼らは妻を伴うこともできず、滞在も不自由である、というようなことでした。奉行は、洋式海軍創設のためには現状の国法を変えざるを得ないという現実に気がつき始めたといえます。

クルチウスは、「数人の日本青年をオランダに留学させ、オランダ政府の監督の下で各分野の学問を修めさせる」といった計画も提案したようですが、即座に反対されたようです(出所:「覚え書」P66)。クルチウスは幕府の「洋式海軍創設」という熱望を感じ取り、本国政府に「蒸気艦の貸与」を進言することにしました。もちろん、その後のオランダへの大量の軍艦発注ということも目論んでいたからです。クルチウスは、のちに海軍伝習にあたっての、オランダの望む条件を奉行に提出していますが、これが、日蘭の条約交渉のベースになっていきます(後述)。

続く

タイトル画像は水野忠徳。彼はもっと名の知られていい幕末の第一級の官僚だったと思っている。



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