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8-1.再来1854年2月12日

今からちょうど170年前のことになります。ペリーは、横浜で条約締結を済ますと、その後に下田、函館へ向かい、6月に再び下田に戻ってくる行程でした。下田に停泊中に有名な吉田松陰の密航企て事件があり、箱館に入ったのは5月17日ですので、今頃は下田に停泊して箱館への出航準備をしていた頃だと思います。

黒船見ゆ

1854年2月12日、7隻の艦隊(蒸気戦艦は3隻)が再びやってきました。今回は浦賀を大きく越えて横浜沖(現横浜市金沢区の沖合)まで入ってきて、そこに停泊します。「黒船見ゆ」の第一報は、伊豆沖にてそれを確認した漁師からで、2月8日には江戸の老中に知られることになりました。横浜沖まで侵入する過程で艦隊の1隻が座礁しますが、その救助の支援を浦賀奉行所と警備の彦根藩がおこなっています。座礁した船から、船体を軽くするために投げ捨てられて海岸に漂着した礫青炭入りの大樽を、わざわざ届けてくれたこと(海岸から約32キロあった)を感謝していることが「遠征記」に記されています。ペリーは、「日本との交渉はうまくいく」と意を強くしたかもしれません。

応接掛の任命

江戸では、この日に対アメリカ応接掛が任命され、浦賀行きを命じられています。任命された対ペリーの応接掛は、筆頭に林復済ふくさい(大学頭)、次いで、町奉行井戸覚弘さとひろ(対馬守)、目付鵜殿長鋭うどのながとし(民部少輔)、儒者松崎満太郎の四名です。筆頭の林復斎は、林羅山から数えて11代の林家当主で、代々儒学者として幕府に仕えてきた家柄で、当時は幕府の直轄の学問所「昌平黌しょうへいこう」の塾頭でした。第一級のエリート知識人といっていいでしょう。林は、ペリーの恫喝に対しても理路整然と反論をして、幕府の言い分を通していきますが、それは後述します。前回の4隻を上回る7隻(その後2隻が来航し、最終的に9隻となる)の艦隊。総砲門数は120。前回63のほぼ倍です。

接触2月13日

「なぜ、ここまで入ってきたか。ここに停泊することはできない」

これが、日本側の第一声だったと思います。幕府の方針は、なんとしても浦賀での応接でした。そのための交渉は13日から、旗艦ポーハタンで浦賀奉行所の新任組頭である黒川嘉平衞と、アダムス中佐との間で始まりました。初回は挨拶程度でしたが、黒川は、応接場所は浦賀以外では応じられないことを力説します。「浦賀には応接場を用意してあり、そこに江戸から高官がやってきて、そこで前回の国書の返答をペリーへ渡す手筈が整っている」というのです。アダムスは「それには提督(ペリー)は同意しないだろう、現停泊地の向かいの陸上でなら応じる」と返し、「日本がそれに応じないのなら、必要に応じてさらに奥へ進む」と脅しをかけました。とはいえ、この交渉は決して険悪な雰囲気ではなかったようです。「遠征記」には以下のようにあります。
 
「この接見は極めていんぎんな中にも親しみをもって行われ、用談が終わると、ご馳走を飲み食いし、愉快な世間話に移った。日本人はようやく暇乞いをして、アメリカ人の断固とした態度に気をのまれたにもかかわらず、例によって上機嫌で、しとやかに友情を示しながら帰っていった。」(「ペリー提督日本遠征記Kindle版/合衆国海軍省/大羽綾子翻訳」P221)

浦賀から毎日通った?

なお、通訳は前回と同じ堀達之助と立石得十郎に加え、前年森山と一緒に江戸へ向かい、森山が長崎へ帰った後も江戸に残っていた名村五八郎の三名となります。「遠征記」によれば、「日本の役人は毎日やってきて、最後には浦賀行きの話をする」とあります。艦隊の停泊地から浦賀は約12マイル(約20キロ)と「遠征記」にあります。その距離を毎日船で通ったのでしょうか。もしそうならば、交渉の現場を任され、アメリカとの間の第一線に立たされた彼ら、しかもその内容は国運を左右するような重大な問題です。いわば宮仕えの一介の役人であった彼らに、わたしは深い敬意と同情をおぼえます。

アダムス中佐の浦賀上陸

16日夜には、江戸から応接掛4名が浦賀に到着しますが、彼らを交えた会議でも、応接場所は浦賀で押し通すことが確認されます。2月17日、18日も交渉は続けられますが、平行線のままです。2月19日の交渉になって、アダムスが「ペリー提督からの回答文(なぜ浦賀では不可なのかの理由と、江戸での大統領国書に対する将軍の回答文受領を記したもの)を浦賀にいって直接そこにいる高官に手渡す」となりました。アダムスら一行(約20名)の浦賀上陸は22日でした。新造されたばかりの応接場で、アダムスは応接掛筆頭の林大学頭と初面会を果たします。林の印象は「遠征記」にはこうあります。
 
「殿様は精巧な縫取りをした絹の衣服をつけ、その立派な風采、にこやかな賢そうな顔、品のよい態度などは全く堂々たる様子をしていた。」(出所:「ペリー提督日本遠征記Kindle版/合衆国海軍省/大羽綾子翻訳」P232)

続く

タイトル画像:この辺りに停泊


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