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君たちは鏡の前でオナニーができるか

 ギリシャ神話のとある一節である。

 あるところに美少年がいた。ある日、彼が山を歩いていると、のどが渇いたので近くの泉の水を飲もうとした。
 すると彼は驚いた。泉を覗き込むと、そこにはとても美しい、性癖ドストライクの少年がいるではないか!
 うっとりした彼は、その少年に口づけをしようと身を乗り出す。しかし、水面に映る自分自身にそんなことが叶うわけもなく、彼は泉に落ちて溺れ死ぬ——「ナルシスト」の語源にもなった、「ナルキッソス」という少年のお話である。

 ナルシズム、と言えば語弊があるかもしれないが、『自己愛』というものは、案外誰しも普遍的に抱くものだろうと思う。
 「自分が好きだ!」なんてむせ返りそうなものでないにしても、一般的な生活を送る以上、自分自身を肯定し、そこに疑いすら持たないという瞬間は誰しもある。あなたが今日、わざわざ金と時間を費やして買ったお洋服やコスメを使ったのも、誰かさんとの会話の中で自分の正直な考えを言ったのも、すべて『自己愛』を有しているからである。

 実際のところ、こうした自己愛というのは、それなりに自分を客観視できるが故に抱けるものではないかと思う。そもそも「好きだ」と人が思う際、大概そこには根拠があるわけで、その対象が他者であれ自己であれ、なぜ好きなのかという理由があるという点では、さほど違いというのはないだろう。
 ただ、その「質」という部分では差異が生じるかもしれない。
 目の前の誰かや何かを好きだと思う時、そこには「私が彼(それ)を好きか」という一方通行的な視点からの判断が行われる。
 一方で、自分そのもの、あるいはその一部が好きだという場合、その視点は相互的なものとなる。「私は自分が好きか」という判断が行われ、同時に「そう思われる自分は私が好きか」という判断もなされる。いわば、主観と客観の循環的な思考が自ずと生じるのである。

 そういうぐるぐるとした思考から導き出される感性というのは、それなりに的を射るような真正さがあるだろう(逆にぐるぐるしすぎて、頓珍漢な結論に至ることも少なくはないだろうが)
 要は自分自身を見つめる際、そこにはある種の二面性が自分の中にあって、その相互作用が自分を形作っているのである。

 エロいことをする時、大概はそこに他者がいる。
 自慰の時も例外ではない。そこには現物であれ妄想であれオカズがある。相手がどうのこうのというのは関係がない。そこに他者性があるのは当然であるということである。
 で、そのオカズというのが、パートナーやご主人様や奴隷でなく「自分」である瞬間、というのは、なかなかにあるんじゃないか⁉と言いたいわけである。

 僕のスマホの写真フォルダの中には、まあまあな数の傷跡の写真がある。もちろん、それは自分が負って、誰かから与えられたものである。
 僕はこの写真を見るのが、やはりそれなりに好きである。というか、大体のマゾは好きだろうなと思う。
 そこには傷を負った思い出やら、赤く滲んだ傷のエロさやら、様々なエッセンスがあるだろうが、時たま、僕はそこに「愛おしさを孕んだ惨めさ」を感じ、悶絶するような悦びを覚えることがある。

 『かわいそうはかわいい』というのは有名な概念である。僕もそれがわかる。
 絶望して、泣き叫んで、ボロボロになって、ともし火が消えかかってゆく時間というのは、ぐうシコポイントであるのは間違いない。加虐を好む人もこうした感覚が根底にあるのだろうか、と思ったりする。
 ただ、間違いなく、マゾヒストの僕は、これを自らをその客体として成し遂げようとしている、言い換えれば、自分自身が「かわいそう」な存在となって、それに与えられる加虐とそれを受ける自分に興奮するのである。

 この時、僕のオカズは「加虐する他者」と「被虐の自分」に二分される。この興奮のベクトルが「被虐の自分」に向いている点において、そこには「自己愛」があるのではないかと思うのである。

 それで言えば「スイッチャー」や「異性装」というのも、そうした自らへのベクトルが関係しているのかもしれない。
 自分の中にある欲求の対象を自らとし、その主体も自分自身となる、具体的には、「自分が興奮するような責めを相手に課し、その相手に自分を投影させて悦ぶ」「自分の好きな異性の恰好を自分自身でする」と表現できるだろうか。
 そうなれば、SとMというのが決して二律背反のものではなくて、お互いにそれが一方の欲求の因果になり得る、表裏一体性を兼ね備えたものであると捉えるのも難しくない。

 そう考えるに、世の中に存在する奇譚な性癖というのは、先述の自己愛的な興奮からくるものを意識すれば、その理解はしやすいのかもしれない。
 油圧プレスや処刑器具のような無機物が魅力的に見えるのも、そうした暴力性が我々に降り注ぎ、それに苦しむ自分自身を易く想像でき、そこに興奮を覚えることができるからであるだろう。
 こうした視点の角度があるからこそ、こんなにも性癖が多様であるのだろうと思う。

 そんで、何でこんなこと考えたのかと言うと、鏡の前で勃起して一人で兜合わせできるやん!と思ったら、クソほど萎えてしまって思いついたからです。
 なのでオススメのふたなり、男の娘作品で兜合わせのシーンがある音声作品があったら、DMで教えてください。

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