見出し画像

センスを言葉で伝えるということをすなり~千葉雅也『センスの哲学』を読む~

 センスについて自分が考える時、まず初めに考えるのは「それが好きかどうか。」だ。自分はつまるところ、今まで“好きこそものの上手なれ”信仰なのだ。好きかどうかが最も重要な問題であり、好きでやっている、もしくは続けていることなら、なんらかの形でセンスがあると言えると思っているし、好きじゃないならそもそもセンスについてなんぞ考えなくてよろしい。そんな比較紋切り型寄りの考え方で今まで生きてきた。だから「センスの養い方」なんてものについて考えるのは、今回が初めてだったような気がする。

 千葉雅也先生を知ったのはいつの事だったか。WEEKLY OCHIAIで初めてまともにお話を聞いて、とても面白かったのですぐに『現代思想入門』を読んでみた。

 まるで講義を文字起こしで受けているように書かれる文章は、難解な内容でも、なんとか思考の足掛かりを探りやすくなっている感覚がある。学生の時は哲学や思想なんてものにまるで興味を示さなかったので、初めての学問に片足の指先を突っ込む自分にとって、千葉先生の文章は学ぶ上でのハードルを一段階下げてもらえているような気分になる。

 さて、今回千葉先生の『センスの哲学』だが、一番自分が「なるほど!」と手を打ったのは「センスを求める人への感覚の伝え方」である。
 冒頭でも書いたのだが、自分は今までセンスの養い方というものについて考えたことがない。故に他の人から「どうしたらそんな風に出来るの?」と聞かれた時に「努力!勉強!100回やってダメなら1,000回やれ!」という短絡的なことは言わないまでも、イマイチ上手く伝えられた覚えがない。

センス:ものごとをリズムとして「脱意味的」に楽しむことができる。

千葉雅也『センスの哲学』第四章「意味のリズム」

 映画などの作品を観た時に、その作品全体としての意味を考えるんじゃなくて、部分部分について味わってみようというのは、改めて言われると初歩的で大事なことだなと思う。「あの時の描写はあれのオマージュ」「あの展開って多分別のあの作品に繋がってる」みたいな作品の楽しみ方は昨今オタク的な扱いを受けがちだと思うが、これは大事な楽しみ方だと思う。そして、その要所要所から伸びる枝葉の数が増えていけば、それはセンスを養っていくことに繋がるのではないだろうか。

面白いリズムとは、ある程度の反復があり、差異が適度なバラツキで起きることである。

千葉雅也『センスの哲学』第六章「センスと偶然性」

 反復の中に起きる差異というのは、自分の感覚で言うところの枝葉が伸びる根本の部分だと思う。そこから思考が芽生えるイメージを持っていて、この枝葉がいつか擦れて交わることをまずひとまずの目標にすべきなのではないかと思うのだ。
 仕事においても同じことが言えると思うが、その道のプロを目指すなら、やはり自分の携わるジャンルについては枝葉を伸ばすべきなのではないかと思う。人から自分のセンスについて、教えてほしいと言われた時、このイメージを伝えられたらと思った。

 本著を読み終えた時、千葉先生が「入門として読むには『勉強の哲学』からオススメします。」とSNS仰っていた。どうやら入門書をすっ飛ばして読んでしまったようだ。
 千葉先生の講義はまだ始まったばかりである。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?