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読書感想文 『まずいスープ』

料理とは、結局のところバランスだ。
なんて、料理などろくにしない俺が言ってみる。
いや、料理などろくにしない俺だからこそわかるのだ。

ひとつひとつの食材がどれほど美味でも、組み合わせ次第でどうにでも不味くなってしまうのが料理というもので、例えば俺のようなズボラな人間は、冷蔵庫のあまりものを全部まとめてインスタント麺にぶち込んでは悪夢のような食い物を錬成してしまうことがある。

サッポロ一番味噌ラーメンに釜揚げしらすと塩サバとめかぶと納豆をぶち込んで上からとけるチーズをトッピングしたりしてしまう。
俺の冷蔵庫なのだから俺の好きなものしか入っていないはずなのに、俺の1番好きなラーメンに入れたら恐ろしくまずいものが出来上がるのだから料理は難しい。

人間関係は料理に似ていると思う。ひとりひとりが新鮮な食材で、違うおいしさを持っていたとしても、組み合わせ次第で悲劇的なハーモニーを奏でてしまうことがある。昔「美味しんぼ」という料理マンガで、主人公の山岡さんが安易に最高のウニと最高の海苔を使った軍艦寿司を作ったところ、両方の香りが良すぎるが故にお互いの美味しさを相殺して台無しになってしまう、という回があったが、それに近い気がする。海原雄山が勝ち誇って「馬鹿め!」とか言ってた。

反して、バランスや相性さえ良ければ、それほど大した食材同士でなくてもそれなりにうまいもんが出来上がるというのも料理だ。スーパーのお勤め品だけで作った肉じゃがとか。カップラーメンの残り汁に冷やご飯と卵を入れて作ったおじやとか。

戌井昭人の「まずいスープ」に出てくる家族は、その点最悪だ。何しろお世辞にも上等とは言えない食材に、バランスも悪い、そんな不出来なごった煮のような家族だ。
主人公の「俺」は就職もせずバイトと世界旅行を繰り返してプラプラし、父は失踪癖があり、母はアル中で、同居している従兄弟の女子高生は非行で停学中。
バランスが悪いだけではなく、全員の味の主張が強すぎる。

父親が序盤で失踪することから物語は始まる。
料理上手なはずの父が残したのは、上野のアメ横で買ってきた鮮魚で作ったとてつもなくまずいスープ。しゃらくさい言い方をすれば、このスープはこのアンバランスな家族を象徴するメタファーなのかもしれない。

そんな父を探していくうちに、この家族の中では比較的自分はまともだと信じている主人公もまた、大麻を吸ってみたり、それを売ったり、酔って吐いたり転んだり、二日酔いで仕事を早退したりと、いろいろダメな両親との共通点を曝け出していく。
直接的な描写はないが、それによって物語の進行と共に、両親との血のつながりを再確認していっているような印象を受けた。

ちなみに俺は自分の家庭をバランスの悪いスープだと思って育ったタイプだ。両親と俺は全員がタイプが違うし、それによるいろいろな揉め事も多い一家だった。
しかし34という年齢になってこの物語を読み返して思うのは、料理というのは食材のバランスだけではなく、調理方法でどうにでもなるものなのではないか、ということだ。

どれほど異色のオールスターが共演していたとしても、丁寧に味付けして煮込めばいつか味は馴染むかもしれないし、そもそもの食材がちょっとあかんかったとしても、よく火を通せば大抵のものは食べられる。

低いテンションで淡々と進むこの物語には、そんな隠れた希望が見出せる。人間関係とは料理と同じで「作るもの」であって、単に「混ざる」ものではない。素材のバランスだけで「これ絶対まずいっしょ」と断じるのは早計だったのかもしれない。

まずいスープに始まり、作中には様々な料理が登場する。その全てが、全然美味そうには描かれていない。延々と不味そうな飯が登場した果てに、しかし物語の最後に一品だけ「美味そう」な料理が登場する。

それは長い年月煮込まれてきてようやく味がなじみ始めたスープのような「家族」を体現している一品で、やっぱりこの言葉はしゃらくさくて嫌いなのだが、ひとつの希望のメタファーとして描かれているように、俺には感じられるのだった。
合わないと思う組み合わせでも時間をかけたり、味付けを工夫すれば、絶品とまでいかなくても、まあまあ食える味になることもある…というような、実に慎ましい希望。
この作品に限らず戌井昭人の描く、全然立派じゃない市井の人々にはいつもそんな慎ましい祈りが込められているように感じられてならないのだ、俺は。

山岡さんと海原雄山だって最近は結構仲良くやってるじゃないか。(孫が生まれたらしい)
ああそれにしても腹が減った。今夜はサッポロ一番に何を入れようか。

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