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労働の対価、職人の仕事

以前にもつらつら書いたけれど、労働に対する適正な報酬を考えることは難しい。

ひとつには、昔から人件費ゼロが当たり前だったから。

家事を手伝うのは当たり前で、それをお小遣いに換算するというのは頭をよぎっても口にしてはならないことだった。

学校でも給食の配膳や教室の掃除は、自分たちが使うものなんだから自分たちでするのが当たり前、そのように教育されたし、そう信じていた。
まあ実際には、それだけで校庭や設備がきれいに保たれるわけがないので、何らかの業者が入っていたはずだ。

教育・育ちのためだろう。労働をお金に換算することは「汚い」ことだと、僕は考えてしまう。

人にまつわるお金に、僕らはあまりに無邪気で無関心だ。

社員をひとり雇ってかかるコストは、だいたい月給の1.5〜2倍になるという。社員をしているうちは気にもしないけれど、会社は社員それぞれに保険をかけ福利厚生を与え場合によっては退職金を積み立ててやり、その占有スペースにコストをかけ、人事経理テクニカルサポートなど間接部門に面倒を見させ、教育を施し……。

人にかかるコスト、自分にかかっているコストに無頓着だから、人件費をゼロと考えてしまうのかもしれない。

別の話として、自分の仕事の正当な対価というものが、わからないということもある。
僕は職業プログラマーだけれど、その書くコードの質は賃金に見合ったものだろうか?
僕は趣味で落書きするけれど、その絵の質はどうだろうか。
あるいは趣味で弾く楽器の演奏だったらどうか。
はたまた調理だったら?(今晩の鶏天もたいそう美味しかった)

見る人が見たら、「すご〜い、これお金取れるよ〜!」レベルのものを、僕は作りだせている、ような気がする。気がする一方で、僕はとことん自分に自信がない。「いや、まさか。もっと上がいますよ」、そんなことを言ってしまうだろう。そして実際、もっとすごいのはウヨウヨいる。

でも、その化け物レベルと比べて、「だからお金は要りません」というのは、どうなのだろうか。あるいはそう言った化け物レベルが、さらにその上と比較して「お代は要りません」などと言っていたら? (これがダンピングを生む)

なかなか難しいんだけれど、人に渡す仕事をして、それに対価をつけることは、決して怠ってはいけないことなんだとおもう。自分で自分の仕事に値段をつけ、報酬を受け取る訓練をしなければいけないとおもう。

自分が生きていくために、いまの生活を維持するために、どの程度のお金が必要で、自分が使える時間で割り算する。そして、それに見合う報酬を請求する。そういう練習を、する。

とはいうものの、シビアに計算することはなかなか難しい。だから、みんなでできるだけのことをしてお金を稼ぎ、みんなで分け隔てなく折半する。そういう世界にも憧れる。

住処をきれいに掃除したり、赤子の子守りをしたり、専門的な職能技術を伝承したり、食事をつくったり、衣類を繕ったり。
本来、それぞれ欠けていては生きていけないもの。
そして一人で、可能な時間資源と労働力を投下したとして、決してすべてを達成しえないもの。

だから僕らは一緒に暮らすことを選んだのだし、だから古くからいうように職に貴賎はないはずで。

焼きたてのパンを軒先に並べ通りがかる人に手渡したり、ちょっとした手品を披露してみせたり、集まって演奏をはじめてみたり、それに耳を傾ける人がいたり、絵を描く人が街を賑やかにしたり、歴史を物語る人がいたり、高度な工学を操る人がいたり。そして、それらのものが「どうぞ」の一言で手渡され「笑顔」で報いられる。

そんな夢のような共同体は、やっぱり、夢物語でしかないんだろうな。

などと。
ウッドデッキの施工費を見ながら考えていたのです。

職人さん1日単価2万2千円。7日。
道具を揃え、施工し、使えるものをしっかり仕上げる。
プロフェッショナルの仕事に支払う対価。

大工仕事って、すごい。
だいたいこんな感じです、というぼんやりしたことしか伝えられなかったのに、できあがったものを見て、ああ、これが欲しかったものだ、っておもえた。
図面を正確に引いていたわけでもないのに、必要となる材料を揃え、加工し、仕上げてしまった。

ああ、いいなあ。
僕も、ああいう職人に、なりたい。

僕は「できる」人に、なりたい。

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