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なあついでに中指も立てな

(書き溜め投稿/拾い画像)

 Cosmic Kicks の「Plan C」 という曲を大事に聴いている。(歌詞はココ
https://www.youtube.com/watch?v=amC127kX95E
  ソレゾレノ・イマ・ミナ・ジゴク。

 芥川龍之介「蜘蛛の糸」をモチーフに、現代のコンフリクトへの懐疑を歌っていることは聴き始めてすぐ分かる。曲名のプランCとはもちろん「プランAがダメならプランBで」という時のアレであって、その「AでもBでもない」いわば第3のルートを常日頃考えている私には「他の人はどのようなプランCを想像しているのか」という尽きぬ興味もあって、曲の存在を知って購入し(←お気に召したら255円)、以来、週に数回は聴いていた。日頃ほとんど音楽を聴かない私なので(歌詞に考え込んでしまい日常生活に支障を来たす)この頻度は「かなり多い」部類に入るのだが、実は「この曲で示されているはずのプランCとは結局何なのか」が当初分からなくて、それをつかむために何度もリピートしていたところがあった。
 もちろん「刺激的な」ワードが散りばめられたこの歌を、狙い通り反発させられた私はちょっと意地悪な気持ちで聴き始めた。保守/リベラルの醜態を揶揄するだけなら誰でもやってる、ただ時代のデッサンにとどまるなんて不本意だろう、さあ真意はどこだ? と身を斜めに構えながら聴いていた。

 まあ、このフレーズを何度でも聴きたかったんだよ。何度だって。
 
  肌の色や性自認 「認めない」と軽視し 
  未だ持てない権利に あの子追い詰めたその人差し指 
  なあついでに中指も立てな 
  分かるはずその手の中にあるピースサイン 

 
 「これがプランA」「これがプランB」と前置きされる構成は「プランC」が明かされる結びを期待させる。だが「プランC」はついに(想像される形では)示されない。そしてA/Bと語られる内容も、分かりやすくどちらがリベラルでもう一方が保守ではなくて、どちらともつかず混じり合っているように感じる。というより、歌の中で彼らの姿はどちらも同じに見えている。「I‘ve been up here and watching U」は「蜘蛛の糸」におけるお釈迦様の視点だが、無論アーティスト自身のまなざしである。この、安い擦り寄りを拒絶して偽悪的な詞世界を理解するために、ヒントになるのはやはり物語の「蜘蛛の糸」なのだろう(単なるモチーフではなかった)。

 「蜘蛛の糸」において「カンダタはどうすればよかったのか」という論点は実はそれほど重要でなく、お釈迦様が悄然と立ち去った後にフォーカスされる「蓮の花」(無頓着に良い匂いを放っている)が真の主役であるだろう。カンダタが慈悲を捨てなければおそらく糸は切れなかったのだが、その要素さえ謂わば「劇中劇」の扱いに過ぎない。学校の読書感想文なら「どうすべきだったのか」には言及しておくべきで(オトナはそこで悩んじゃう無垢なキミが見たいからね!)、「カンダタさんは叫ぶべきではありませんでした。叫べば筋肉の収縮によって強い振動が生じると考えられますし、与えられた振動で虫けらが吐いたタンパク質を主成分とする糸など簡単に切れるであろうことは当然予測されて然るべきでした。そんなの小学生のボクでも分かります。なぜ足の指でそっと糸を切らなかったのか。現代人ならそうします。そもそも地獄に落ちている時点で積んでます。一体もう少し上手に生きられないものなんでしょうか」とか何とか、書いておけばいいだろう(そうやって適度に浅いことを書いた方が与しやすしとオトナは安心するよ!)――しかし、あくまでも蓮の花のありようを芥川龍之介が書きたかったであろう点は、汲み取っておきたい。
 そして、この歌もそうなのだ。
 
 彼らに髙見の見物をしている余裕はない。だって極楽時間ではもうお昼なんです。まだ糸の残りがあるかのように縋りつく人々をシニカルに眺めやる部分こそがポーズなのだ。彼らが心を寄せる存在は「蓮の花」に見立てた「あの子」である。ここにいると君は言わずにいられなかったね、分かってる。――そう寄り添いつつも、しかし今から狂騒に分け入って流されることはできない。理知が邪魔をする。何度も繰り返されてきた対立、その浅ましさを知ればこそ心はどこまでも閉じて行くから。自分を見失った人々をを目撃してきたがゆえに(What about me?)と自問せずにいられない彼らには、どちらかのポジションに囲い込まれることができない。その内省と自問こそ、今や誰とも見分けもつかない人々と彼らを分ける唯一のものなのだから。しかし思いは溢れる――ここにいるのに、と。大事なのはそこだったのに、と。

 モラトリアムでいられるわけもない、取り込まれるわけにもいかない。いっそ人を軽蔑できたら楽になるのだろうが、彼らはそれもしない。そうやって背を向けた人々とその結果も見た彼らであるがゆえに、できないのだ。――彼らはそれで糸がぷつりと切れるかもしれないとしても、やはり歌う。
 
 他者を追い詰めた人差し指だけじゃなく、いっそ中指も立てろよ、でもあんたの手が象(かたど)るものを見てみろよ、ピースサインだろ、その手はピースサインを作ることもできるんだって分かれよ。――あるいはそれに類することなら、何なら私でさえ言って来たかもしれない、臆面もなく言わせてもらうならば。だが私にピースサインを掲げ続ける勇気はあったのか。私は繰り返し、そこをこそ聴く。苦くリピートする。指をこじ開けたら、掌に固く握り込んでいたものは未だそのままでそこにあるか――ないんだろうな、だから今「いい加減 目を覚ましな」と言われているんだな。でも。
 
 すべて復権の道のりは人が叡智を諦めなかった結果だ、絶えなく信を置く営みなんだ、そうだろう? 被抑圧者からの発信には「請う」でも「乞う」でもない、そんな「恋う」部分があるものだ――この歌は私にそれを思い出させる。恋うていたい。できるなら。


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