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「ご感想への返信2023」No.17

セクシュアリティを考える時に、身体的性、自認する性、表出する性、恋愛対象の性に加えて、恋愛のベクトルの距離のようなもう1つの視点があるというのは個人的にとても納得し、興味深いと思いました。それぞれの性でどのような感じ方になるのかは容易には想像できないものもあるため、わからないものはわからないと教えてもらう姿勢も大切だとわかりました。質問なのですが、同性婚を認めることは必要だと思いますか?また、同性婚が今認められないのはなぜなのでしょうか。私は、いざという時に家族以外のパートナーの意見も尊重できるような環境であれば結婚は身体的な性の男女でするものと決めてしまっても良いのではないかと考えました。理由は、今は恋愛感情を抱かない性など性は多様で複雑であるため、すべての人が愛しあって結婚している訳ではないのではないかと考えたからです。男女で結婚すれば、子どもをつくることに問題はないですし身体的な構造の違いによる力や考え方の違いなど上手に補い合うことができるのではないでしょうか。同性婚を認めるメリットや必要性は理解しているつもりですが、デメリットにはどのようなものがあるのかも知りたいです。

学生の感想から

「性的指向」の説明について

 講義の振り返りとして、私は性的指向と恋愛欲求/性愛欲求の経験頻度や程度を別にみるような考え方を提示してみたのですが、今回「納得し、興味深い」と書いて下さったのは嬉しいものの(ありがとうございます)、来年度からは単に「性的指向」と説明するにとどめようかと考えています。性的指向の「対象の性別を問う」部分と「欲求そのものをどの程度経験するか」の部分を分けて考えた方が「アセクシュアルのゲイ」というような状態が理解しやすいかと考えたけれども、「ベクトルの方向と距離」と言えばいいことだなと現在考えています。すみません、性的指向には方向と距離がある。性のベクトルです。どういう説明が分かりやすいだろう、と常に悩みながらやってます――これは、まあ言い訳です。


ファミリーアイデンティティが絶対的なら異性婚のみでよいか

 質問の仕方として単に「同性婚は必要か」とするのではなくて、ご自分の思索のプロセスを示し意見を書いた上で質問して下さっているのでありがたいです。端的な質問だと講師は10通りくらい質問意図を想像し、どのパターンでも有益な回答をしなければと思い、結果フィードバックが遅れます。

 さて、「患者のファミリーアイデンティティ(誰を家族と見なすかという概念:法的家族とは限らない)が病院において絶対視され、法的家族以外でもキーパーソンとなれるのであれば同性愛者の患者にとって法律婚は要らないのではないか、ということですね。結論から申し上げれば「現実にそのようになっていないから」同性婚は必要です。どうして病院が法的家族を優先するか分かりますか。病院は病気や死という患者の人生を左右する要素を扱うからです。患者が意識不明だとする。患者には死別した伴侶との実子がいて、現在同棲する事実婚の伴侶とされる人もいる。延命措置まで含めて二者に意見の対立があったとして、病院はどちらの意見を聞くでしょうか。その状況であなたは患者が意識不明になる前に患者から「実子は私の幸福など考えてくれない。事実婚の伴侶に決定させたい」と口頭で希望を聞いていたとしたら、あなたはどれくらい患者の希望を通せるでしょうか。あらゆる患者の近縁者に思惑がある。それら思惑には正しいものも、正しくないものもある。判断を誤ると大変な問題になる、という局面です。病院が法的家族の意向を聞くのはやむを得ないことだと思いませんか。あなたが闘うとしても、非常に困難だと思いませんか。

 もちろんやむを得ないからと言って、患者の意思に背いていいという話ではありません。患者の法的家族が患者に悪意をもっている場合もあります。

 ひとつ事例を。ある大きな病院では末期ガン患者のために緩和ケアを準備していたにも関わらず、患者の娘が患者に対して「手術が終わったから退院しなければならない(緩和ケアはない)」と思い込ませ、病院に退院(治療の終了決定)を求め、実際に退院させてしまったケースがあります。担当医師は「後々社会問題化するだろう」とカルテに残しながら、娘の主張通り患者が治療継続を望んでいないものと考え退院を認めてしまった。スタッフは誰ひとり患者の移送先も把握しないまま、退院させた。結果、患者は別のガン治療ができない施設で凄絶に苦しみながら死にました。治療から引き離されたため急激に衰弱し、予期されていた余命の1/6という期間で死んだのです。患者は病院を退院させられた後、治療に戻れないことを知り、娘の悪意にも気づき、せめて娘を相続から外す公正証書遺言を作成しようとしたが間に合わなかった。患者がおかれた異常な状況を公証人が理解できず、患者からの希望に反して依頼を断ってしまったのです。――病院が「患者が法的家族から不正に扱われるはずがない」という思い込みをしなければ、患者の内面をもっとヒアリングできていれば避けられた事態だったかもしれません。誰かひとりでも、望まれるような(今あなたがそうあるべきと考えているような)プロとしての仕事をしていれば、患者の命は守られたでしょうか。――よく考えてみて下さい。
 ちなみにこの事例では、患者は子にとってひどい親でも憎まれるべき親でもなかった。子は単にお金に困っていて、土地が欲しかっただけだったのです。患者を隔離/孤立させ、生前贈与を迫りたかった。下らないですね。でもそんな下らない思惑で、患者が医療から引き離されることもあるのです。

 これは「患者のファミリーアイデンティティの尊重」に基づいた看護が、実効性のない机上の空論だと言っているのではありません。むしろその考え方がいかに大切かという話です。「しかし現実としてそうなっていない」という話です。病院は家族や遺族の思惑が複雑に絡み合う場所です。患者の意思を今後どう守れるか、考え抜いて下さい。皆さんが考え抜いて日本の医療を牽引すると思うから、私は皆さんとセッションを続けているのです。

 しかし現段階でそのように(理想のように)なっていないのであれば、レズビアンやゲイには「自分のことを最も考えてくれる伴侶を法的家族にする選択肢」がなければならない。なぜなら、医療者には神の目がないからです。患者のおかれた状況を全て見通すことなど、できないからです。
 ですから私は「同性愛者には同性婚という選択肢が必要だ」と考えます。

全ての夫婦が愛し合うわけではないのは、少数者が理由ではない

結婚は身体的な性の男女でするものと決めてしまっても良いのではないかと考えました。理由は、今は恋愛感情を抱かない性など性は多様で複雑であるため、すべての人が愛しあって結婚している訳ではないのではないかと考えたからです。男女で結婚すれば、子どもをつくることに問題はないですし身体的な構造の違いによる力や考え方の違いなど上手に補い合うことができるのではないでしょうか

ごめんなさいちょっと強めに書きます。

 愛情は婚姻の条件とされてませんね。現実問題としてすべての男女の夫婦が愛し合っているわけでもない、これも自明と言っても構わないでしょう。だから婚姻という概念をいっそ「子どもを産み育てる」面に限定して、それに適した組み合わせにのみ許すものにして構わないのでは、という意見でしょうか、つまり今後のこととして。率直な気持ちとして、驚いています。
 「今は恋愛感情を抱かない性など性は多様で複雑であるため」、今後は「広く開くのではなく、狭く閉じる」発想で、きっちり出産育児のシステムにしようと。特に改憲するのではなく現行法のまま、結婚の理念をそちらに徹底していくイメージなのかな。そういう文意であることは(頑張れば)理解できなくはないのですが、「今は性は多様で複雑」であるから「すべての人が愛しあって結婚している訳ではない」という文章からその文意を見出すのは困難ですね。現在の結婚を「愛のないもの」にしているのは性的少数者じゃないし、性的少数者がシス‐ヘテロの婚姻を複雑にしているわけでもないのに、そう言われているように読めるんです。性的少数者はどういう感情でそれを聞けばいいのかな。
 性的少数者の「感情」はひとまず置くとして、既存の結婚に問題があったにせよ(もしくは今後の結婚に問題が生じるとして)、「だからシス‐ヘテロにとっても婚姻は不要だ」とはならず「だから性的少数者には不要」とする展開に「男女による子どもの産み育て」が出て来るのですが、それを書いたとき、一瞬でも不妊症の夫婦やひとり親家庭のこと考えましたか?

 結婚を認める要件に「子ども」を入れますか?

 皆さんに強く言いたいのは、同性婚を否定する理由として、子なし夫婦や不妊症の人々にとっても、更にはひとり親家庭にも抑圧である論理を持ち出すのはやめよう、ということです。夫婦に子どもがいなくてもいい、当たり前のことです。人工授精を必要としない受胎に適した組み合わせであることや、生殖能力があることは結婚の条件にはならない。同性婚云々以前の話。現代的感覚では、もう出て来ない話。ほかの理屈でなら同性婚に反対してもいいけれど、今後その話はやめて下さい。さすがに聞いてられないです。

 一応、そこにも配慮したつもりで書いているんだよね、きっと。それどころか、自分の中には差別する気なんてないと思っているでしょう。でもあなたの中には子どもを産み育てることを基準に結婚していい人としてはいけない人を分ける思想がある。子どもができないと(夫側に理由があるかもしれなくても)妻が離婚されていた時代を経て、人々が獲得してきたのが現在の婚姻。その意味を少しでも変えていいわけがない。時代を逆行させちゃいけない。そんなことを言い始めるくらいなら、いっそ軽蔑される覚悟をもって「同性愛者に人権はない」くらい言いなさい。そっちの方がまだマシです。

「男女の夫婦であれば、身体的な構造の違いによる力や考え方の違いを上手に補い合うことができる」?

 考え方に性差があるとする立場に私はありません。「男女は(他の)性差を上手に補い合えるのか」という点については「そうあるのが望ましい」と思いますが、そもそも(身体的性別特徴でいうところの)同性間に性差はないので、その論法でいえば、そもそも違いがないゆえ「より補い合える可能性が高い」という言い方もできるのではないでしょうか。まあこれは意地悪な言い方であって、現実として「同性間なら分かり合える」というのも神話にすぎないので、「異性間でも同性間でも伴侶は上手に補い合わなければならない」。あらゆる組み合わせで、そうだということです。

同性婚のデメリットにはどのようなものがあるのか

 合意した成人二者間の結婚ですので、デメリットはありません。両人以外にとっても、婚姻は第三者の権利を侵害することではないので、ありません。異性婚やその家庭に悪影響を及ぼしたというデータもないようです。保険金や、偽装結婚によるロンダリング等「婚姻制度を利用した犯罪が起こる」という懸念を聞くことがありますが、それは起きるんじゃないかな。異性間で起きていることは、同性間でも起きるでしょう。しかしそれは「異性間に婚姻を認めたから/同性間に婚姻を認めるから」起きるのではなく、婚姻制度そのものの脆弱性、また「異性婚を利用した犯罪者がいた」という問題です。あなたも「犯罪に悪用されているから異性間の結婚は社会的なデメリットだ」と考える必要は今後もありません。異性同性問わず相手と結婚したくなったらしましょう。私もそうします。


反対する人には理由がある、という考え方のクセをやめましょう。特にその反対によって権利を奪われている人々の前では。

中央線で。男性が本を読みながら吊り革を持って立っていた。前に座っていた女性が、その男性をギラギラとした目で見上げていた。性暴力被害者女性支援に携わっていたその男性が読んでいたのは「僕が妻を殴るなんて: DV加害者が語る」というタイトルの本。女性は降りる駅に差し掛かると、車中に悪臭が充満するような放屁をして下車した。

実際にあった怖い話。

 これは私自身の経験なのですけどね。私が書店で本にカバーをかけてもらうようになった(自身の腸内環境も整えるようになった)出来事です。とにかくギラギラと睨まれて、さすがに「ああ、このタイトルの本を読んでいる私が暴力亭主だと思ってるのかな」とは察しましたが、あまりにもバカバカしいし、危害を加えられることもないだろうと思っていたのです。まさか目が痛くなるようなオナラで捨て身の攻撃をされるとは予想していなくて、私はもちろん周囲の乗客たちも吐きそうになっているし、最悪でした。

 で、この話を性暴力被害者女性支援の同僚に話したのですが。その話を聞いた同僚は、「どうしてその人はそんなことをしたんでしょう?」と言い、困惑し、盛大に悩み始めたんですね。その時の私の気持ち、分かりますか。
 「なんで? 知らないスよ」、それだけです。ただDVの本を読んでいただけで他人の腸の中の臭いを嗅がされて、どうして加害者の心情や事情を慮らなきゃならないのか。考えたくもないです。むしろ「どうしてあなたは私がどんな思いだったか考えてくれないのか」と思いました。

 この話には学びがあります。被害相談を受けた人の態度によっては、暴力の「否認」に映るということです。加害に理由を探す態度は、被害者にとっては暴力の「否認」に見える。考えたいなら場所を移して(自宅でとかね)考えればいいことで、被害者の前でしてはいけない。ラポールが崩れます。
 実際「加害の理由を探す」という行為は、加害を正当化するために行なわれもするのです。例えば、人々が誰かを好んで抑圧していると思いたくないとき、社会への信頼が揺らいで不安なとき、人は抑圧を正当化しもする。
 社会には暴力があります。そして暴力は、ただ暴力です。私は女性運動からそう学んだのですが。


同性婚は結婚観を変えるもの

 同性婚がなぜ認められていないのかと、あなたは問いました。シロタ・ベアテ・ゴードン氏が草案を作った憲法24条の「両性の合意」についての質問なら、当時の日本では婚姻が女性の合意なく行なわれていたのをゴードン氏が見かねたのです。別に同性愛禁止条項じゃない。公正世界仮説に基づけば、きっと同性愛者が何か不正をしたから罰を受けているのだと人は言うでしょうね。私の考えでは、「人々が反対するための理由を探すから」です。

 前掲の記事によれば、同性婚を法制化すると偏見は激減するそうです。その理由を研究している人がいるのか知りませんが、私はとても納得しています。これだけ痛みを負いながら法さえ顧みない人々の権利を、誰が真剣に考えるだろうか。どうして自分と同等の国民だと思えるだろうか。法には国民を導き学びを与える役割があるのです。



 

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