見出し画像

友情に関する短い考察

「まず友達と感じない知人の誰かについて考えてみました。架空の」
「うん」
「その人が誰か/何かに攻撃されていたら何とかして助けたいと思います。人生つまづいてるとかヒトゴトにならん」
「はいはい」
「でもその人が自分を見失ってクソ荒れてたら助けようとまで思わない」
「うんうん」
「放置します」
「ぶははははは」
「そこで何とか救いたいと感じたなら、その人はおれにとって友達なんだと思いました」
「なるほどね」
「そんな感じっすね!」
「そういう人って誰か具体的に思いつく?」
「ヤン・イクチュン」
「……」
「ヤン・イク・チュン」
「いや聞こえてる。映画の人?」
「ウン」
「会ったことないよね」
「ない」
「それ以外は?」
「ヤン・イクチュン」


――詩人は、悲しみを抱えきれない人のために代わりに泣いてあげる人だ。

映画「詩人の恋」より

 映画の中で男性が男性を好きになると「ゲイだ」って言われるんだよな。ちがうけどな。チョン・へジン演じる妻が気になる。映画「詩人の恋」はどうせ日本版のディスク出ないと思って韓国語/英語のDVDを買っていたという経緯がある。そうしたら日本版が出た。でもね走り出してしまうほどの思いが自分にあったことが大事なのさ――じゃねえよ。ただそう書いたら大人っぽいかなと計算しただけだよ。後悔してるよ。もうちょっと待ってればよかったよ。何なんだよありがとうね。

 この「詩人の恋」は私生活が落ち着いたら観ようと、鑑賞を先伸ばしにしている。ゴタゴタの中で急いで観なくてもいいじゃない。心の余裕。大人だ。なんせディスク2枚もあるからね、安心だよね。


 まあヤン・イクチュンが好きなのは、映画「息もできない」を作ったからなんだろう。そこはずっと変わらないんだろう。通好みの映画じゃない。正直甘い映画だと思う。珍しい筋書きでもない。新しい視点も表現もないだろう。でも好きでたまらない。必死だから。「詩人の恋」も「告白/コンフェッション」も「あゝ、荒野」もネットフリックスのドラマも観ないのは、「息もできない」を特別な一本にしておきたい気持ちが強いのだろう。

 結局、私のなかでヤン・イクチュンといえば「息もできない」でのサンフン役なのだ。それが役者本人にとって喜ばしいことかは分からない。しかし彼が私財を投げうっても作りたかったあの映画は、やはり私に特別な思いを抱かせる。どうしてサンフンを好きになれるだろう。どうしてサンフンを愛さずにいられるだろう。人生が好転することを願わずにいられない。あの映画の中で、「自己実現」なんて寝て見る夢にも出て来やしない暮らしに絶望した彼らの姿は、どこにも見つけられずにいた友達のように感じられた。


 分かってる。サンフンは最低だし、あるいは彼らだってもう少し恵まれていれば、下層で喘ぐ人を「自己責任」と切り捨て、努力しない負け犬と笑っていただろう。「努力したから自分は転落しなかった」「努力するからこれからも転落しない」、と信じて。他に思うことはないだろう。下から二層目のココロはそのようなものだ。

 現代はその「下から二層目」が分厚く横たわる時代だといえる。いやただそう書けば「現代を切り取ったっぽいから」そう書いただけだ。昔っから構造なんて同じだ――最下層を遠目に眺め内心の不安を隠す人々、本当であれば手を携えることもできるのに好んで分断されていく、重税と引き換えの「あいつらとはちがう」というささやかなプライドを与えられた人たち。しかし施政者にとって真の搾取対象は彼らなのであって、最下層はその「下から二層目」のガス抜きに用意されただけなのだ。身分制度は無批判に唯々諾々と従う民衆(マジョリティ)を育成するための、最も効率のよい収税システムなのだから。そんなの歴史をみれば分かること。

 「放置します」なんて、強がりだ。地獄をみたことがないなんて、言わない。この空洞を見ろよ、君のと何も変わりはしない。だから、――と言いさして、口ごもる。

 「だから」どうするんだろう。手をつかむのか。多分そこが誰にも分からなくて、誰よりおれ自身も分かんなくて、それが腹立つくらいカッコ悪いって思うんだ。でも、手を引っ張りたい。そういう気持ちは本当にある。あの映画を観ながら自分はそういうやむにやまれないものをヤン・イクチュン監督に感じたのだった。ちがうのは、自分はまだ何もしていないことだと。


【 閲覧注意 】 未成年者の飲酒や暴力 以外の シーン「も」あります。


 誰かが「殺してやりたい」とか「死にたい」と言った時に、「殺したらダメ」「死ぬのはダメ」って言うだろう。「あなたは悪くない」って言うんだろう? でもそんなことしか言えないなんてダサいだろう。殺すのはダメ、分かってるよ。死ぬのはダメ、分かってるよ。こっちがひとつも悪くないのなんて死ぬほど分かってるよ。浅い言葉を聞かされてクスリ漬けになる以外に解決方法がないことに絶望してるんだって。何で痛めつけられている側がてめえの神経にダマシ入れて痛覚失くせば幸福になれると思うんだよ。おかしいじゃねえかよ。
 「生きていてくれてありがとうと言いましょう」「あなたは悪くないと言ってあげましょう」――その程度の言葉で人の人生を救えると本気で思うのか? ……そう侮蔑しながら、生を救う言葉を探してる。

 もちろん、殺すのも死ぬのも止めなきゃいけない、でもそこから先の言葉を言えなきゃダメなのだ。そこに続く言葉。殺したいとか死にたいとか、人に思わしめた状況を、どう変えられるのか。――その問いに答えをもたないままの「ダメ」は、あまりにも力弱い。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?