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「ご感想への返信2023」No.22

マジョリティである人は、性的少数者に対して、「セクシュアルマイノリティ」、「ゲイ」、「トランスジェンダー」といったグループのうちの一人と認識しており、そのグループの中でも考えや表現するものはそれぞれ違うのに「ゲイの人的にはどう思うのか」「セクシュアルマイノリティの人ってこういう人だよね」という区分けをしてしまうということが多いのではないかと感じた。よく言われる表現だが、「性」はグラデーションであり、各々がしてほしいこと、嫌なこと、考えていることは違う、ということをしっかりと理解する必要があると思う。私は性自認も好きになる性も世の中のマジョリティに当たるが、それだって他の人と細かな考えは異なる、そのように、マイノリティに当たる人に対しても何も聞かずにレッテルを貼り、本人の考えを聞く前に行動してしまうような人にならないようにしたいと思った

学生の感想から

認知バイアスで一番好きなのどれ?

 私は「外集団同質性バイアス/内集団同質性バイアス」がとりわけ好きで。書いて下さったことは外集団性バイアスですが、人は同じ属性にある人のグループ(内集団)に個々人の多様なライフコースや複雑さを認め、かつ他のグループ(外集団)よりも賢いと考えがちなんですね。書くそばからアホっぽいけどそうなんですね。私はゲイであることで「ああ今、IQ90くらいだと思われてるんだろうな」と感じる場面が多いです。

性的少数者の奇妙な経験

 そうした不合理で不条理な心の働きはもちろんマイノリティからマジョリティに対しても起こると考えられるけれども、私が性的少数者としてとりわけ理不尽に感じるのは「シス‐ヘテロ集団および社会についてのレクチャー」が唐突に始まる瞬間です。私の両親はシス‐ヘテロで、私はシス‐ヘテロ優先社会で育ったのに、本当に唐突に「あなたは分かってないと思うけど私たちはね」とルール説明が始まる。私が生まれ落ちてむしろそれしか学ばせてもらえなかった「シス‐ヘテロとしての生き方」が示される。まるで自分が科学実験(のミス)で生まれてしまった何かか、文明から隔絶されていた誰かだったかのように感じるし、まさにその人が伝えているのもそれなんです。

 ゲイだとカミングアウトしたら絶対にその面でしか見てもらえない(一般的なシス‐ヘテロ男性と共通する経験や共有する感情がゼロにされる)という現実認識がある。カミングアウトは「別の一面を見てもらえるようになる」ものだけれど、同時に「他の面を一切見てもらえなくなる」覚悟の必要と切り離せないものでした。その一方で、日常生活で私が経験しているのは「駅のホームで電光掲示板に表示される遅延情報を見ていたら、電光掲示板と私の間にいる女性がとても落ち着かなげにする」というような「シス‐ヘテロ男性」としての扱いなんですね。人が見るのはどれも自分じゃない、という奇妙な感覚がずっと続いていく。ズレたピントを戻すのに、とても苦労しています。

それはシス‐ヘテロにとっても「奇妙な体験」であるはず

 しかし起きていることは同時にシス‐ヘテロにとっても奇妙な体験なのですね。私という人物が、異世界から来た誰かのように感じる。異端者のように感じる。共通の話題などないかのように感じる。価値観がちがうのではないかと感じる。警戒してしまう。愚かなことを言う。高みから見下ろした態度も取ってしまう。「リラックスしなよ。俺を育てたのはシス‐ヘテロだよ」と思うけれども、「昨日までと同じ態度がとれない」ということが起こる。昨日まであった信頼や共感はリセットされて、昨日までの私が居なくなったかのよう。「必要な教育がない」って、そういうことを引き起こすんですね。

多くのゲイは私にとって見知らぬ他人だが、あなたはちがうはず

 長年の知己に対するカミングアウトでは、拒絶されなくても孤独感を感じることがあります。たとえば「俺らより同じゲイの方が分かり合えるんでしょ」というような言葉を投げかけられると、悪意じゃないと承知していても(むしろ寄り添おうとして間違った言葉だと理解はしている)、そうじゃないのになって地味に打ちのめされている。一緒にやってきたじゃん、沢山笑った、いろんな話をしたよな、正直親友だと思ってた、でもあなたは俺のことを自分よりどこかのゲイのほうが分かると思うのか? と、寂しくなる。私は(ゲイじゃなくて私は)、だから新しい人間関係ではなるべく先にカミングアウトしておきたいと希望しているし、同時になるべく「友達と認定し合うこと」を避けていたりする(クセで予防線を張る)。数年以上過ごした関係性で何気なく「おれ友達いないからね」と言ってしまい、相手の顔色が変わったのを見て、ああやっちゃったなごめん、と思っていることも、ありますね。何やってんのかね、お互いに。
 感情がバグって「ゲイに生まれなければ」と考えることは(年齢的にも)さすがにないけれど、そんな後悔があったという記憶は忘れないし、今も抱えている。どうして私たちは(シス‐ヘテロと性的少数者は)、そういう関わり合い方から始めなければならなかったんだろうか。


 とまあ、こんな自分語りをしてみましたがいかがでしょうか。性的少数者であることは「個性」なんかじゃない(属性です)。日本国籍なのに、日本人なのに(多分)、シスジェンダー男性なのに、ゲイなのに、それらイメージにそぐわない、はみだした、それのみで説明できない部分が、(あえて言うなら)個性であり、私やあなたを他とちがう存在にしている。きっと人はそういう部分で友達になったりならなかったりしているのであって、できればそうでありたい。そんな気持ちでいます――「ゲイが」ではなくて「私が」。……いやここは、「誰もが」と言いたいですね。きっとそう言ってもいいこともあるんだろう。いつか見えてくるであろうそんな部分に希望をつなぎながら、やって行きましょう。これ、書いて下さったことへのレスポンスとして大丈夫かな、分かりませんが、ひとまず。



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