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スプリンターカリブ2代目

(画像はウィキペディアから)

 ⒛代の頃に乗っていた、私にとって最初の車。あの頃は携帯にカメラなんてついてなかったし、デジタルスチルカメラも持っていなかったから手持ちの写真もなく、インターネットで画像を探した。今見ても惚れ惚れする。「今なら尚更」惚れ惚れする。2017年に「ハロー張りネズミ」がドラマ化された際に初代が使われていたようだが、初代の画像は載せない。私にはカリブといえば2代目。スケバンだってそうだろが。

 一度上京し働いていたものの、実家の借金返済がどうにもならず、全部捨てて田舎に戻り、急きょ合宿免許に行き、これと同型同色の中古を購入、工場で働き始めた。価格は確か50万円だったと思う。車のローンと維持費以外は実家に入れ、30歳まで働けば家の借金も完済できる計算だった。家が抵当に入っていたので必死だったのもあるが、元々、夢を言えるような経済状態じゃなかった。一度東京に出たのも、母が子に広い世界で生き才能を活かして十全と生きて欲しいと願ったのに調子を合わせただけで、子どもの頃から将来の夢などもったことは一度もなかった。案の定、予想通りに田舎に戻って工場で働く以外になかったわけだ。

 それでも車をもつこと自体はそれなりに嬉しかった。田舎で車を所有していない家など我が家以外になかったから、近所で見下されていたのは身に染みて分かっていた。いわゆる「かわいそうな家」というやつだ。それに幼い頃から私には「家族が助け合う」という在り方に憧れがあった。給料日にはいつも家族に大桶の寿司とケーキを買って帰った。
 あの時代が、短くも、家族にとって最も幸福だったと思い出す。あのまま田舎で30歳まで工場勤めをして実家を守れていたなら、現在の私は自分を誇りに思えていただろう。

 しかし結局、家族は別の理由から離散するしかなかった。家を売却し得た金のあらかたを返済に充て、母は祖父の家に身を寄せた。そして私はこの車も手放し再び上京した。私は失意のどん底にいて、人生の意味など全く分からなくなっていた。新宿駅東口の雑踏を前に、一歩も動けなくなったことがある。誰もが目的をもって生きているように見えて、自分にはそれがないと思った。年若い時期の挫折、家も家族も守れなかったというあの絶望がなければ、私は運動に傾倒しなかったしRYOJIと名乗ることもなかっただろう。
 闘わなければ目の前で奪われ大切な人たちが死ぬ。それが人生だ。

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 いやひどい文章だな。家族のことに触れるとこうなる。家族との最後のドライブは、ワイパーも効かない豪雨の夜、郷里に父の墓も置き捨てて、国道をひたすら離散に向かって走るというものだった。「いつもよりスピード出てない?」と助手席の母が言った。メーターは80km/hを示していた。「大丈夫だよ」と応じながら、アクセルは緩めなかった。
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 単に、車のことを書きたかったのにな。本当に良い車だったのだ。

 実は、実家に戻る前に付き合っていた人が乗っていた車だった。私には初めての交際らしい交際だった。年上で、カルバンクラインの「エタニティ」をつけていた男。しかし私は家族を守ることを選んだ。それ以外なかった。

 「それで免許取って、そっちで何に乗ってるのワ?」
 「カリブ」
 「カリブ? なんで」
 「好きな人が乗ってるから」
 「ほぉ、好きな人がなぁ」

 若かったなりにもう会うこともない恋人に対して精一杯の愛情表現をしてみせたものの、電話口でもニヤニヤ笑っているのが伝わって来て、赤面するしかなかった。終わるとお互いに分かりながら、いつか今日の続きがあるように話した。せめてもの思いやりだった。この先の人生には夢も希望もないと悟ったからこそ選んだ車。自分は恋愛もしたと忘れないために選んだ車。

 何だこれ。なんか、全然良いことを書いていないみたいだ。でも必死に生きていた若い日々の記憶が、この車を見かけると甦る。

 
 


 

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