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「ご感想への返信2023」No.14

自身に強迫的自設ハードルを立てがちだと気づいた。「わからないから教えて」と伝えてよいということを知った。自分は、友人が同性愛を告白しようと異性愛を告白しようとその人が幸せであればいいというくらいのスタンスです。異性愛に対して悲観的な意見を持つ人はなかなかいないので誤解が生じることはほとんどないと思いますが、一方で同性愛などの告白を受けた時は、私はその人自身をありのままに受け止められますが、世間では世代によってはまだ同性愛というものが分かっていなかったりして悲観的な考えを持っている人もいることもあり、反応によっては誤解が生じてしまうと思いました。なので、何かしら自分がもちろん同性愛も異性愛も応援する立場である、といったことを積極的に示す必要があり、どのような言葉を掛けたらよいかと、授業を受けていて感じました。ですが、授業の質問応答で、同性愛の告白には受け入れてほしいという思いだけではなく、より親密な関係を築きたい、仲良くなりたいという思いもあるケースがあり、あくまで友人等では以前までの関係性にそった会話の一環として重くとらえる必要もないのではないかと感じた。

学生の感想から

場面にふさわしい表現と態度がある

世間では世代によってはまだ同性愛というものが分かっていなかったりして悲観的な考えを持っている人もいることもあり、反応によっては誤解が生じてしまうと思いました

  

 ご感想のこの部分、「カミングアウトを受け止めきれない親のまずい発言を同性愛者である子どもが(愛情のなさと)誤解する」という設定で読めばさらっと読めるのだけど、それ以外の組み合わせを考えてみて。「同性愛」を「女性の権利」に置き換え、あなたを侮辱した中年男性上司Aとあなたの間に立って仲裁する女性上司Bがこれを言ったと想像してもいい。女性上司Bはあなたの味方をしてない気がしませんか。全ての言葉が中年男性上司Aの暴言を擁護するためで、あなたの側に立たない。果てはあなたの誤解とまとめ上げている。
 「そう読める言葉だ」ということが分かりますか?
 状況次第なんです。スタンスを決めなければならない局面がある。そういう時には、一歩も退けない。傍らにいる人を守らなきゃいけない。目の前の人が二度としないようにしなきゃならない。私の前で女性蔑視発言をした人に対して、私がどう向き合ったかお話ししたはずです。やんわりとどちらにもつかず収めようとしていては、結果両方から恨まれることだってあるよ。


「幸福であること」が条件なのだろうか

 「その人が幸せであればいい」という言葉は、セクシュアリティを肯定する時によく聞かれるし、ひとつの観点としてあるし「あってよい」と思うけれども、寄りかかるには弱い柱であると感じています。「その人が幸福だと感じていないときには理解できなくなる」ということだし、性的指向であれ自認であれ、人はそれで幸福じゃなくてもやめることができないからなんですね。例えばあなたがシス‐ヘテロ女性であるとして、男性に不信感や嫌悪感がぬぐいきれなくて生理的に嫌でも、男性と人生を共有することがあなたにとって不幸でしかなかったとしても、男性に惹かれる自分を変えることはできない。基本的にセクシュアリティにはそういう一面があるわけですよね。

 人は自分に備わったセクシュアリティに折り合いをつけ受け入れているかもしれない、「皆とおなじ」だと発見したり、パートナーとの関係性において自己肯定したりしつつね。でも仮に他人から「悲観的な」と見られる人生だったとしても、あなたはあなたであり続けるんです。そのときにあなたは「どうして幸福になる道を選ばないの?」という周囲からの疑問も背負わされながら生きることになるのだろうか。あなたは環境や状況によっては人生に幸福を感じられないかもしれない。特に、他人から人生が認められる基準として「幸せであればいい」と言われ続けるのであればね。

 「その人が幸せであればいい」、本当にそうだし、その通りなんだけど、それはあなたのその人に対する「願い」や「祈り」であって、人生を理解する基準にはならない。理解や共感の基準になり得るのは「あなたも私もそれでひとつも幸福ではなくても、それぞれの人生に向き合うしかない」という部分かもしれないのです。私はマイノリティ/マジョリティを問わず、出会った誰彼にそういう共感をしばしば抱きます。同じだなあと思う。ちょっと切ない気分で「同じだなあ」と思っている(そして幸福であるよう祈る)。幸福であろうがなかろうが、人生は待ち受けているものだからね。

本当に「その人が幸せであれば」いいのか

 また、「個人が各々自分の人生に幸福な面を見出すことができれば」個人を取り巻く環境が「悲観的」であってもいいのか、という問題は残ります。「あなたが幸せならいいじゃない!」と対話が終わることの問題点はそこにある。自己受容できている人は立派に見えますね。誰もが言葉を失うような人生を送って来た人のドキュメンタリーをテレビで観ていても、そういうくだりってあるんですよね。「この花に水をやるのだけは自分でやるんです」とかさ。観ている側としてはものすごく感動するんだけど、同時にホッとしている。まるで社会が何一つ前進しなくても、人は誰しも人生に喜びや意義や幸福感を見出すものだと証明されたような、後味であり「解放」なんです。でも、いくらでも死んでるんじゃない、テレビに映ってないところで。幸福なんて1ミリも感じないまま、一瞬も生きる喜びなんて感じないまま、ただ死んだり、自殺した人ってたくさんいると思うんですよ。きっとその人たちは、その前日まであなたの前で笑っているんじゃないのかな。
 性的少数者も、同じです。

 人は何かを見出すと思うよ。でも見つけられない人もいる。幸福であればいいよね、確かに。それはそうさ。人はそうあるべきかもしれない、どんな人生からでも意義を見出さなきゃいけないのかもしれない、部分的には同意する。でもね。それをできる人なんてとても少ないから、ここに書いておく。――「私は」ゲイで幸福だったと思ったことはない。一度たりとも。

 私はゲイで、ゲイとしてはとても恵まれていると思う。東京に出て来て、自分の努力もあったけど機会と人に恵まれて、多くの活動を思いのままにやったし本も出版した。皆さんとお話もできている。パートナーもいる。感謝する気持ちはある、でも私はゲイで幸福だったと一度も思ったことがない。

 パートナーに「ゲイじゃなかったら虐げられている人の存在にさえ気づかなかったかもしれないのだから、攻撃していたかもしれないのだから、それを思うとホッとする」――だから「ゲイでよかった」と、言うことがある。パートナーもしみじみと、同感だと言う。
 しかしそのパートナーと私も他人としてそれぞれ葬られる時が来る。そのとき私は運命を呪う。ゲイに生まれなければよかったと思う。全てが無意味だったと考える、と分かっている。そんな私の人生を「その人が幸せであればいい」という基準しかもたないあなたは、どうやって理解するだろうか。

 「幸福であればいい」という、祈りがある。私の中にもある。でもそれだけじゃ解決しない問題の前では、もっと言葉が必要だ。あなたは「人が幸福じゃないときに」それでも人生は生きるに値するものだと、出会う患者たちに言えなきゃならない。私も、あなたが自分の言葉を見つけるのを待っている。確かな言葉を見つけるのを待っている。人を人生に向かわせる言葉を、生かす言葉を、あなたは見つける。そうしたら、また聞かせて下さい。


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