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「ご感想への返信2023」No.26

私は過去Xジェンダーの恋人がいたり、600を超える数の映画を観て1番好きな映画はCarolとCMBYNだったり、自身のセクシャリティーにも疑問を抱いたことがあったり、恐らくLGBT関連の話題と関わる事が多かったと思うが、自分のLGBTに対する偏見を感じている。その理由の一つとして、政治的思想がある。私は保守派の考え方にとても賛同しているので、LGBTが、マイノリティーが、だとかいう話を聞くとどうしてもリベラル思想の人が自分の利益のために言っているのではないかと考えてしまう。例えば話題のLGBT法だと、トランス女性を名乗る人がお風呂やトイレに入ってきても、その人に何かを言えば差別とみなされ、こちらが悪くなってしまうような法律であり、そんなことが通るなら安心して生活を送ることもできない。日本は遅れている、もっとマイノリティを受け入れるべきだ、という人は多くいるが、マイノリティを受け入れるがために、マジョリティが多くを譲歩すべきだと言うのは間違っているのではないか。LGBTについて考える際には声の大きい少数派の意見ではないか、それは本当に当事者が感じている事か、を十分に考える必要がある。

学生の感想から

 講義があった2023年5月の時点では、LGBT理解増進法は成立していなかったしトランスジェンダー団体および公衆浴場の施設管理者たちも声明を出していなかった。国民の混乱を鎮めるべき国は役割を放擲し一部の政治家はむしろデマを支えた。その時期に学生がすべきことは、パニックを起こさず、自らの知力を信じ、冷静に考えることだった。女湯に身体的男性が入れるようになり通報者は差別行為で罰せられるという法律が成立するとなぜ思えるのか。しかし学生の中には、このようにインターネット上でよく見られるヘイト構文をそのまま書いてくる者もいた。現在はこの学生もまた異なる考え方をしているだろうか。それは分からない。しかしこの「一部のシス‐ヘテロ女性」に始まったとされるパニックあるいはデマは実際に国会でも重く受け止められ、「全ての国民が安心して生活できるよう留意する」という「一部でも不安を感じる国民がいるならLGBT施策は行なえない」とも読める文言が入ることになった。「不当な差別は許されない」という、正当な差別があってよいと解釈される表現も盛り込まれたのである。

 「性同一性障害」について法整備が始まったのは約20年前だ。しかし日本社会は混乱などしなかったし、今もトランスジェンダーは膀胱炎を悪化させながら男女共用のトイレを求めてコンビニを探している。私は学生たちにそう話した。トランス女性にとって「女子トイレ」や「女湯」は最も危険な場所なのだと。自らの身体を厭わしく思い憎みさえしながら生きてきた人々が苦しみの根源そのものの場所で裸体を晒すと考えることがおかしい。実際トランスジェンダー団体はトイレや公衆浴場の解放など主張していない。

 学生が耳を傾けるべきは、50歳になる講師が子ども時代から「女子トイレに女装してまで侵入する性犯罪者が何度もニュースになっていた」という「学生の親世代が誰でも知っている事実」であり、学生が恐れるべきは、そうした実感や因果関係への疑念がかき消される社会の空気であった。デマに踊る人々の姿をこそ恐れるべきだった。無主張のトランス女性を人々は公然と非難し深い傷を負わせた――「排除は起きた」。そして最大の被抑圧層であったシス女性が同じく被抑圧者であるトランス女性を排除した「構図」が残った――講師を辞めたいと思ったのは初めてだった。ショックだった。      

 

 この学生からの意見には、何も応答すべきことがないように思える。典型的なヘイト構文を構成ひとつ変えることなくなぞった文章であり、講義内容は反映されず、借り物の言葉とエクスキューズが並んでいる。この学生からの拒絶に対してどこまで講師としての義務を感得すべきか悩んだ日々だった。おそらくこの学生が想定するところの「自分の利益のために」言っている「声の大きい少数派」である私が言葉を尽くしても耳をふさぐことだろうし、構文の検証もヘイト言説をブラッシュアップし精度を高めてしまう結果につながる。積極的に回答する理由が全く見当たらない。何よりこの学生は、私に会って話を聞いた上でこれを書いたのだ。信頼関係は崩れている。

 言うに事欠いて、マイノリティのためにマジョリティが「譲歩」するなど間違っていると学生が考え発言する事態の異常さが、苦しい。しかし、何も希望が見えない時代に人々がそのルートを辿らないと、一体誰に言えたのだろうか。この時代に合わせて女性にも扱いやすいヘイトは生まれた。もうヘイトは中高年男性の顔をしていない――牽引するのが誰であっても不思議はない。性的少数者についての話をする講師として学生たちに出会い、近年は明らかに反発がみられるようになって、始まりは遠慮がちに、しかし徐々に被抑圧者に対する支援の必要への懐疑がレスポンスシートに書かれ始めた。抑圧が分からない。それは取りも直さず、自らが女性というマイノリティである学生たちが、被抑圧者としての自己を守る言葉をもたないことを意味した。性的少数者についての講義で「シス‐ヘテロ女性の」抑圧への抵抗について学生に対して語らなければならないようになった。そうした時代的変化を見て来て、いずれ学生がヘイト構文そのものの感想を提出することも、講師として「思いがけないことだった」とは言えない。若い世代ばかりではない、私にさえ年寄りと感じられる世代を含めて、この国民は差別を甘やかな「共感と支援」に語り直した物語を聞かされて育って来た――社会保障も揺らぎ生活も苦しくなれば、たやすく堕落する思想だ。「私たち」は何が差別かさえろくに知らないのだ――加害の歴史は、社会に適合できない「生きにくい」人々に「共感し」、「寛容に」、「支援してあげる」ことに語り直され、それを信じた。しかし「抑圧側に生まれついた立場で何を壊していけるか」は教わらない。「被抑圧側である場面での闘い方」も教わらない。自らに希望もないのに共感せよ支援せよと言われれば「弱者」に怒りが向くものだろう。まさかこの国で「マイノリティのためにマジョリティが譲歩するのが正しいのか」などという恥ずかしい言葉を聞くようになるとまでは私は思っていなかったが、人の心にはずっと芽があったのだ。
 今や国民は、性的少数者に対する抑圧があったことさえ記憶から消したのではないか。「寛容」という「罪をとがめない心の広さ」を意味するその言葉は「加害意識を避けるために」多用されてきたのだ。その長い歴史があって、今がある。

 しかし私の中に尚も疑問が残る――この感想のベースにあるヘイト構文はその汎用性の高さがまず特徴的なものである。汎用性の高さゆえに、ヘイト言説としても極めて危険なものである。それが分からないのだろうか。既にあらゆる社会的マイノリティからの発信に、この型のヘイトが向いている。シス‐ヘテロ女性に対しても充分に有効なものだ。シス‐ヘテロ女性が勝ち得てきた立場は依然として盤石ではない。明日にもまた新たな課題が見えてくるだろう。しかしシス‐ヘテロ女性が被抑圧者としての顔を捨て別の面を見せた後に、開かれているのは隷属のルートだ。名誉男性としての称号を得ることが女性にとって勝ち残るための手段となる――世の中の安全基準は変わるのだ。それは性的少数者も他のマイノリティにとっても同様だ。「活動家なんかじゃありません」と自己紹介し、誰かの気に障ることがないように生きること。誰もそれが何年続けられるかは、考えていないだろう。想像するような転落が起こらない限り考えなくていい。しかしそのような思考の始まり自体が、既に転落が始まっていることを示すのだ。やがて自分の番が来る。気に入られるように振舞い、他人の目に止まらないよう息をひそめ、順番を繰り延べてもらえることを祈る日々が、それまで続くだけだ。なぜ階級差別があり、下層階級が作られるのか分かっているか。マジョリティに適度にガス抜きさせ、同時に転落への恐怖を与え、不満を政府に向けないようにし、効率よく税金を徴収するためだ。最大の搾取対象は人口比数%の性的少数者ではなく、あおりを受けて政治家から「公金チューチュー」と嘲笑されたアイヌや在日でもない。「上級国民」の下位にあるマジョリティなのだ。

 しかしシナリオはひとつではない。

 被差別者だけ支援されて不公平だと腹を立てるなら、その目障りな少数者にあなたと同じだけの権利と機会を与えるよう国に求めればいいのだ。そうすれば少数者が騒ぎ立てることはなくなるし、国は権利に目を開いたマジョリティを無視できなくなる。そして国が少数者に与えるものを見れば、あなたが既に与えられているものばかりで羨む必要など少しもなかったと分かるだろう。あなたが生まれながらに持っているものしか、彼らには与えられない――それが救済の内実である。国に求めてトランスジェンダーの名誉を回復させ、同性愛者に婚姻を与えさせればいい。もし他の誰もが生まれながらに与えられている権利のうち、あなたに制限されているものがあるなら、それも忘れず国に求めたらいい。国民のために働いているのだと、政治家に思い出させるのだ。救済リストはまだまだ続く。全てが必要な救済だ。リストにはあなたのための空欄も残しておくから、あなたの名前も書けばいい。


学生の皆さんへ

 
 皆さんが読んでいるかどうか分からないまま書き続けてきたこのフィードバックですが、今回で終わりです。全員に返信しているわけではないのですが、内容の重複をなるべく避けた結果、このボリュームになりました。他に「講義の後に故人となってしまった芸能人について」書かれたご感想もあったのですが、経緯を考慮し、ここで扱うべきでないと判断しました。

 私の講義は、一般の「LGBT研修的なもの」より高度な理解を学生に求めたものでした。私が言うことにも「共感<理解」「仕事に持ち込まなければ偏見があってもいい」など異例なものがあり、困惑した方もいたでしょう。私はなるべくマジョリティとして皆さんに話すようにしていたので、場面によってはマイノリティの話でさえなかった。それは皆さんに「マジョリティとしての」役割を意識させたいからでした。そのことが、皆さんがマイノリティであるときにどう社会に求めていいか示すのと同じくらい、大切なことだと考えているのです。私たちはマイノリティとしてのプライドと、マジョリティとしてのプライドを両方もたなければなりません。とはいえ、新年度からの講義は180分から90分になるので、そう多くは求められなくなります。どこまでフォローできるのか悩んでいるところです。

 そうした諸般の事情から、書きなぐりでも何かメモを残しておきたい――そういう思いで、この形での発信をして来ました。これからも皆さんが読むかもしれないことを念頭において書いている瞬間もあるだろうと思います。しかしひとまずこのタイトルで書くのは終わりです。アーカイブと呼ぶには完成度が低く、すぐ書き直し始めたくなるかもしれませんが、ともかく。

 最後に、いま皆さんを支えてくれるであろう本を2冊、紹介します。ぜひ読んで下さい。とても良い本だから。

差別は思いやりでは解決しない ジェンダーやLGBTQから考える

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アイヌもやもや:見えない化されている「わたしたち」と、そこにふれてはいけない気がしてしまう「わたしたち」の。

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これほど良い本がそれほど作られるわけではありません。ご自分のために読んで下さい。ぜひ。

 他者への義務はあなた自身の権利の範囲を、他者に行なわれる救済はあなた自身が救済される余地を示しています。これからの社会をどうするか、皆さん自身の頭で、皆さん自身の言葉で、考えてくれるよう願っています。遠からず死ぬ人たちではなく(もう少し言葉を選ぶべきかな)ご自身で社会をデザインすべきです。ご聴講ありがとうございました。      RYOJI

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