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「ご感想への返信2023」No.21

同じような傾向の者同士でコミュニティを作り、そこで他の者と自ら一線を画すことで己を守っていることが多いように思います。「ノンケ」という言葉の流用もそれに起因すると私は考えています。それこそ理想的な世界を一概に決めることは難しいですが、このような住む世界を分けていること自体が互いへの後天的な嫌悪感、偏見の増大を生んでいるように感じています。ただ、双方の世界が隔絶されている背景に、結局自分以外の感情は理解し得ないことがあると思うと致し方ないようにも思えてしまいます。難しいのは、少数派が用いているある意味差別的な用語は、少数派の言葉が故に顕在化しにくいという点と、そして虐げられる側だった故に腫れ物扱い的に指摘されづらい点ではないのでしょうか。その言葉を使うことで生まれる安心感、仲間意識に救われている人がいる事実も無視できません(それが良いかは別として)。私は、たとえ「ノンケ」という言葉自体が無くなったとしても、代替する自分と異なる者を雑に定義するような言葉は生まれてしまうと思っています。この現象を無くすことは可能か、そしてそれには何が必要か、よろしければ意見をお聞きしたいです。

学生の感想から

授業の振り返りとして

 講義ではヘテロセクシュアル/異性愛者が巷間「ノンケ」という俗称で呼ばれてきた例を示し、不当な呼称(公正性に欠く呼称)について考えた。「ノンケ」という言葉は「その気(ケ)がない=ゲイではない」という意味であり、そこには異性愛者である可能性も含意されるが、もちろん「異性愛者は同性愛の傾向がないというだけの存在ではない」。それは同性愛者に向けられる「その気がある」という言い方が同性愛者を表現するに充分でないように、充分ではないのである。

「自分以外の感情は理解し得ない」のだとしても

 自分以外の感情は理解し得ないとしても、お互いに理解できる感情もあって、私たちがこの講義を通じて共有しているのはそちらだったと思います。
たとえば痛みや喜びは、想像できること。そうした想像力に欠けた蔑称は避けていいよね、という話です。私がシス‐ゲイで皆さんの多くがシス‐ヘテロであろうという、その時の「シス‐ヘテロ」という表現も、仮置きされたものだし、ある程度の公正性を保ち得るであろうと「思える」程度のことなんですね。例えば「多くの蔑称は隠語的に略されてきたのであれば、略することはいけない。シスジェンダーかつヘテロセクシュアルという状態をシス‐ヘテロと呼ぶな」という要請があっても不思議ではないわけです。これはそうした、「皆さんも自分がどう呼びならわされているかについて、意見をもつべきだ」というだけの話です。そうした思索のプロセスには、「痛み」があるかもしれない。その時に、「自分以外の感情」に対する想像力が生まれるのです。

この現象を無くすことは可能か

 ご質問ありがとうございます。「この(他者を雑に定義するような)現象を無くすことは可能か、そしてそれには何が必要か」、という問題ですが、自明なこととして、自己と他者を分ける言葉は必要なんですね。アイデンティティは皮膚のようなもので、自己存在と外界を分ける境界であるとともに、自分を守るものであるからです。そのアイデンティティ(自己同一性)に何らかの名称があることで、社会に対するところの個人であれるし、固有の問題を提起することもできる。私たちが問題にするのは、その名称/呼称が「公正性のない/納得がいかない/不当なもの」だった場合です。まとめられちゃうとか、明らかに悪口だろう、というようなケースですね。

 あなたは非常によく「なぜ他者表現が必要になるか」その背景に寄り添い、それが消えにくい理由まで考えています。多面的で多層的なその思考は、この問題について要点をほぼ洗い出していると言えます。私も特に異論はありません。異性愛者が同性愛者を「ベント(ねじ曲がったやつ)」と呼べば、同性愛者は異性愛者を「ストレート(屈託も知らないおめでたいやつ)」と呼び返す、そういう応酬も生まれることでしょう。ヘイトクライム(嫌悪犯罪)があれば、リスクマネジメントとして「仲間かどうか」分けるための隠語も発達せざるを得なかったでしょう。そうした背景をみたとき「他者を雑に定義するような」この現象をなくすことは、(しかし/それゆえに)可能だと考えます。必要なものは互いの安全/安心であり、そこから生まれる互いへの敬意であると思います。
 よろしいでしょうか。

 大事に考えて行こうね。



 

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