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またもマスクの話である。私たちは今、マスク着用にほとんど抵抗感がなくなった時代を生きている。今や半顔の時代である。かくいう私も、花粉症になるまでは、せいぜいインフルエンザの季節にしかマスクのお世話にならずにこの年齢まで生きてきた。確かに、公共の場でマスクをしないことは魔女狩りの渦中にいるような気がして、堂々とはずすこと能わざる状況ではあるが、屋外でマスクをはずしている人とすれ違うと、裸で行き交っているような赤裸々な開放感を感じたりするものだ。はたして、私のほうがおかしくなってしまったのだろうか。

マスク着用が当たり前になって、意地悪な見方をすれば、視覚情報としては美男美女が増えた(無論これは、マスク文化の影響でメイク技術が格段に向上した、というテクニカルな意味だけではない)であろうし、逆に顔が見えない分、人の優しさや心遣いが二倍に感じられたりもするようになった気もする。表情が見えないだけに、視覚的な情報が減ったことで、対人の印象にギャップが生じるようになった。声の印象も、私の中で随分とバリエーションが広がった気がする。

人の印象というのは、案外容易に変わるものだ。しかし例えば、人間関係の時間的な濃度が几帳面に限られた環境では、必ずしも好意的な驚きばかりではないのかもしれない。小学校なら6年、中学校、高等学校なら3年。先生は、生徒の顔を半分しか見ないうちに、彼らは卒業していく。先生も大変なことと思う。子供たちだって大変だろう。半顔でなかった時代とは、教室やグラウンド、イベントで得られる情報量も、あるいは叱った思い出も相当少なくなってしまっているに違いない。

ルーヴル美術館のサモトラケのニケは、半顔どころか頭がない。片翼であることも不憫ではあるのだが。私たちは、おそらく永遠にニケの顔を知らないままこの世を去る。美しい肢体にどのような顔…正確には表情をうかべていたのか、もし知ることができたのならば像の印象も大きく変わったに違いない。

その事実が惜しいかどうか、それはにわかに判断することはできない。なぜなら私たちは、生まれたときからニケについてはあの姿しか知らないし、「ルーヴル美術館のサモトラケのニケ」は、あの形のまま認識していて、あの姿こそが「ルーヴル美術館のサモトラケのニケ」にほかならないからだ。もしあの像に顔があったならば、それはもう別の美術作品、あるいはさしたる美術的な魅力のない、歴史的には重要な彫刻像でしかなかったかもしれない。蛇足ならぬ、蛇頭と呼ばねばならないかもしれないのだ。

ともあれ、半顔であるということはさまざまにデメリット、あるいはメリットがあるのかもしれないが、少なくとも隠されることで鋭くなる感覚があることもまた事実である。視覚文化偏重に毒された現代だからこそ、誰かの気配や印象を、他の感覚で、全人的に認識し理解するというのは案外大切なことかもしれない。(了)

Photo by axintecprn,Pixabay

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