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ホテルは最高。 〜余白に暮らすブルース〜

住空間、というのは非常に大きな問題である。たとえば、家にしろ家具にしろ、住空間の価値観が合わない人と暮らすのはなかなか難しい。単純に、自分が居心地がいいかどうかという問題もあるが、やはりそこは共同生活なのだから、ともに暮らす人たちの快適さを軽視することはできない。

私は比較的引っ越しが多い方なのだと思う。生まれてから数年住んだ家には、引っ越した後もう一度住むことはなかった。思い出もほとんどない。海外から帰国して、その後10代、20代は同じ場所、同じマンションに長く住んだが、その間にも、東京都内や沖縄など、何度か一人で住んでいる。この二十年の間でも、つい昨年住まいを替えた。

確かに長く住んだ場所もあったが、こういう家に住みたい、こういう部屋で暮らしたい、という強い希望や理想は、これまでもなかったし今もない。
引っ越しの途上で故郷らしい故郷を失い、あるいは自ら捨てる中で、いつの間にか住空間に対するこだわりと無縁になってしまったのだ。部屋や家などは仮の住処なのだ、と割り切っているところもある。インテリア、という意味でならば、コーディネーターだった叔母の影響で、子供の頃から興味があったが、それはいつでも再コーディネート可能であるという自由が担保されていることが優先事項であるから、固定的で永続的な空間に対して、装飾的な、あるいは機能的な思い入れが強いということとは別なのだと思う。

そういう私であっても、旅先のホテルはいつも私をわくわくさせてくれた。様々なタイプのホテルに宿泊したが、そのどれも特別だった。トラブルでさえ、非日常的で楽しく、今も忘れられないエピソードがある。あるいは、たびたび同じ宿に宿泊していると、少し間が空いていても顔を覚えていてくれたりして、これはなんとも嬉しいものである。そうして、仮の住処ばかり偏愛しているうちに、結論として、究極の住空間はビジネスホテルだと感じるに至った。

ホテルというのは、厳密に言えば住空間ではない。ある一定期間の居心地を追求した空間である。そこに住み続ければ、いま抱いているホテルへの愛情も醒めてしまうのだと分かっている。しかし、高度にパッケージ化されたビジネスホテルには、その余白の分だけ、空間としても、あるいはそこを起点としたライフスタイルにも、まだ見ぬ可能性があるような気がしてならない。無機質で賑わいのない廊下、部屋に入ったときの、どこも代わり映えがしない景色、最小限のスペースしかない机の上に、最小限の荷物をひとつひとつ広げるときの、あたかも、それを合図にこの大量に複製された一室が、自分だけの空間として起動するような高揚感、シャワーカーテン、それを見る習慣のない私には点けられることもないテレビ、硬く糊が利いたシーツ…。すぐに眠りに就くことができて、すぐに出かけることができる。室内では、基本的な動作以外に必要なものがなく、余計な動きも求められない。

ふたたび、住むことを考えるということは、社会的な生き物である人間にとって、あるいは定住することを覚えた人類にとって、とても大切なことだ。昔から言われることで、衣食住は「初代・三種の神器」である。衣食はもちろんのこと、住を疎かにするのはデラシネ(根無し草)だと言われても仕方がない。そして私は今現在、ホテルに住んでもいないばかりか、家に暮らしている。おそらく、生きている間はこの家に住む。

だからこそ、なのだろうか。ホテルで一生を終える人ーそれが長いホテル暮らしでも、晩年いっときのホテル暮らしであってもーの心中如何なものか、とロマンティシズムがなお疼くのである。仮の住処で命を終えることは、ありきたりな情報で想像されるような、落魄の果て、失意の終末なのだろうか。ニコラ・テスラが鳩を友に、不遇の一生を終えたのは孤独なホテルだというが、私には、天才にしかわからぬ境地の中で、我々の想像や評価とは別次元の自由に揺蕩って、その生命をホテルの余白の向こうに仕舞ったのではないか、とも思えるのだ。(了)

Photo by Remles,Pixabay


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