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旅情奪回 第29回:北鎌倉。−逍遥とオウムと

先日電話で、知人が鎌倉に遊びに行ったと話していた。鎌倉は、私にとっては少し不思議な場所である。

中学生だったか、学校の社会の授業かなにかで鎌倉に行った記憶がある。鎌倉の大仏を観たり、この階段で公暁が討たれたのかなどと、歴史マンガの一コマを検証するような気持ちで鶴岡八幡宮を参拝したりなどしたわけだが、どういうわけかその後、近くて遠い鎌倉は縁の薄い場所になってしまっていた。

「そうだ 京都、行こう」は、いまもってパロディにされるくらいの名コピーだと思うが、旧twitter(Xよりもこちらの呼び方のほうが“正式”に思える)呟き文化を先取りするような、情報量の少ない余白だらけのコピーの傑作である。実際、どこかに旅するというには、ふとした思いつきや衝動に駆られてのことも少なくない。

大学生になっていた私の衝動の矛先としてふたたび私の中の地図にたち現れた場所、それが鎌倉であった。
ほとんどの時間を、講義と部活動と物思いに費やしていた学生時代だったが、その日の講義を消化してしまった午後、部室でぼんやりとしていた。美術部の部室は、サークルばかりの大学にあって、文化連合という大学のお墨付きの正式なクラブであったため、広くて快適な部室が与えられていた。そして、当然美術部であるから、快適な部室はさらに快適にカスタマイズされ、まさにカオスの魔窟然となっていたが、それが私たちにとって居心地がよかったのである。あの部屋から、才能ある先輩や素晴らしい仲間、そして後輩たちが世の中に巣立っていった。

長い長い夏休み前だったのか明けてすぐだったのか思い出せないが、とても暑い午後だった。いつものように部室のソファに沈み込んでいたのだが、まさに衝動のように、突然鎌倉に行こうと思い立った。そして私は、渋谷駅からともかく、鎌倉、正確には北鎌倉へと向かった。北鎌倉まで出て、鎌倉駅から家に帰る。その程度の計画だったのだと思う。

鎌倉に特別な思い出があるわけでもないのだ。別に湘南でも箱根でも館山でも、どこでも良かったのだが、なぜか鎌倉に足が向いた。
北鎌倉駅に着くと、あとは勘だけで、一路鎌倉駅まで歩いた。大した距離ではない。語るべきものを数多持ちながら、向こうからはあえて何も語りかけてこない「鎌倉っぽさ」が、なにかと五月蝿い若さと隔絶されるにもってこいで、この北鎌倉〜鎌倉の散歩は、すっかり私のお気に入りになり、秋であれ、冬であれ、気が向いたときの気分転換のひとつとなった。

ときどきひとりになりたくなると、ちょっと鎌倉行ってくる、といって部室を抜け出すことも増えた。そのうち、ちょうどコースの真ん中あたりに、感じの良い甘味処を見つけ、そこで一服する楽しみもできた(記憶がすっかり薄くなって、該当する甘味処を地図で探してみたが、それらしいお店が見つからなかった。あるいは、もっと北鎌倉寄りの老舗の名店と知らずに通っていたのかもしれない)。

私にとって、この北鎌倉から鎌倉の散歩は、いつもとは違う場所で、若い時期のいろいろな物思いに最適な道、いわば私的哲学の道、だったのである。
ある時、この特別なコースが突如として不穏になった。坂本堤弁護士一家殺害事件、である。オウム真理教問題に関わった弁護士一家が、狂った教団幹部の手によって殺されたという、痛ましい事件である。その坂本弁護士一家のお墓が、ちょうど散歩コースの途中にあった。あの時点でいまだ謎に包まれていた事件を究明すべく、大義のために幼い子まで犠牲になったことに胸が痛くなり、一度、いや二度くらいはお墓に手を合わせたような気もする。
北鎌倉から鎌倉への散歩道は、もう私にとって逍遥の場所ではなくなった。私の、哲学の道ではなくなってしまったのだ。

そんなことがあって鎌倉から少し足が遠のいて以降、オウム真理教をめぐる事件の数々は信じがたいほどグロテスクな展開を迎えた。あの散歩の途中で手を合わせた坂本弁護士のお墓が、大事件の序章を意味していたのだと、あの当時は気づかなかった。

あまり後味の良くないまま、またも鎌倉との距離は広がってしまった。しかし、あの散歩のたびに感じた「鎌倉っぽさ」が、いま、どういうわけか恋しくもある。そうだ また鎌倉、いこう。(了)

Photo by hot-sun,Pixabay

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