お気に入りが私を古くする
コンコン、コンコン。
そこにいるのは誰ですか。
そちらの世界は楽しいですか。
知らないドアがあったら、とりあえずノックをしてみる。
誰かいるの? ドアの向こうに私も行って平気?
少し前まではノックして、様子を伺って、思案したあとは結局、ノブに手をかけることもしなかった。
そっちも気になるけど、やっぱり私はここがなじんでいるし、動きたくないな。
数年前、ライターの呑み会に参加した。よくお名前を拝見する人もいて、その中には密かに好きなライターさんもいた。
ドキドキしながら話しかけて、その会話の中でこんな言葉が投げかけられた。
「君はさ、やりたいやりたい、って言って結局やらない人でしょ?」
ガコン、と頭を何かで殴られたような気がした。
その人は私のことを何も知らない。でも、数分話しただけで、サクッとそう言われてしまったことがショックで、心がガクガクと震えた。
言葉の端々に、引きこもっていることがにじんでいたってことか。
そうなんだ、やってみたいことはたくさんあるけど、もしもばかりを考えて、怖がって一歩も動けない。年を重ねるにつれて、足が動かなくなる。体力だけでなく、心もいつのまにか衰えていたのかと驚いた。
そう自覚しても、すぐに動けなかった。
今さら、新しいことをしたからって世界が開けるわけじゃないでしょう?
傷つくと、昔より治るのが遅いんだ。その分、痛みにはやたらと敏感で。
何もしてないくせに、強がりとやらない言い訳だけはいっちょ前。
でも、もしかすると、今年は転機だったのかもしれない。
いろんな人と話す機会に恵まれた。
そこで得たのは月並みだけど『新しい視線』と『新しい考え方』、『客観視されること』。
できるだけ、自分を客観的に見よう、と務めていたのだけれど、それがネガティブな方向に働くので、強みを見つけるというところには至らなかった。
それが、ひょいっと何気なく言われた言葉で「あ、私ってそういういいところがあったのか」と納得。なんなら、それは私が欠点、短所として捉えていた部分で、視点を変えれば長所に成り得るのだと感激した。
人と会って話すだけで、ほんの少し、世界が変わるなら、今までやったことがないことにチャレンジしてみたらどうなるんだろう、と興味が湧いた。
初夏ぐらいからは、誘われるものには何でも乗っかってみた。今まで気になっていたけど、勇気が出なくてやれなかったことにも手を触れて。そこから不思議と自分の短所と長所が見えてくる。そして、周りに対する考え方も少しずつ変化していった。
世界には知らないことがたくさんあって、死ぬまでに知る、触れることができるのはほんの少しだ。
例えば、ショッピングモールでたくさんのお店が立ち並んでいる。でも、いつも立ち寄るのは同じ店で、結局同じファッションに身を包むことになるだけだ。
けど、一緒にいる誰かが「ここに寄っていい?」と入ったお店に新たに気になるものが見つけられたとしたら?
1人だと知ることができるものは限られているけど、誰かと一緒なら、また新たなものを知ることができる。何より、まずは自分のフィールドから一歩出てみないと何も始まらない。
年を重ねるといろんなものに固執する。
人に、場所に、生活習慣に、そしてあるべき自分の姿に。
そして、自分の心をぎゅうぎゅうに締めつけて苦しくなっていく。
知らないドア、ノックしたなら開けてみたらいい。
開けてみて、ちょっと違うな、と思えば、また閉めればいい。
そんな簡単なことができないだなんて、ずいぶんと悲しくてつまらない生き物になってしまったものだ。
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