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あんなにやっていたのにね

何かを途中で止めることは無駄でしかない。今日まで一年と3ヶ月、フランス語を結構精力的に学んでいた。ここ半年は週に2回語学学校に通い、複合過去と半過去まで進んだ。だんだん表現の幅が広がってきて面白くなってきた頃でもある。外国語を学ぶ過程は面白い。めんどくささも大いにあるのだけど、言葉の裏側にある文化を垣間見ることになるから基本的には極めて面白い。ところが語学を学んでも使う目的がない。フランス語圏の友人と話すとか、旅で使うのはモチベーションのひとつにはなる。だけど学んで何になるというのだろう。これはサイエンスを散々仕事にしてもなお、誰かが研究すれば私でなくていい、と思ったのに似ている。何かに対してこうやってこうやったらできるようになる、というのは面白い。数学ならば小学生の一桁の足し算から分数の割り算までありとあらゆるところにトラップがあり、みんなどこかでつまづいて数学嫌いになる。でもそれは幻想で本質的には誰でも数学は理解できる。なぜなら数学は言語だから。わからないのはきちんと説明されなかっただけだ。教える側の怠慢だとも言える。

途中で嫌になって辞めちゃった何か、それはもう2度とその世界に戻ってくることはないから、扉を閉めてさようなら、となる。ん?扉?ああ、そうか。可能性の扉だ。面白そうだと近づいてちょっと扉を開けて見る。中を覗き込んで何があるか見てみたりする。ちょっと扉の中に入ってその世界に触れてみたり、あるいは少し歩いてみたりする。そこには道があるからその道を進んでいく。だんだん険しくなっていき、石につまづいて転んだり、池にハマってびしょ濡れになったりもする。それでもその道を進んでいくのは目的地がはっきりとしているからであり、どこへいくともしれない道をただ突き進んで行ったりするのとは違う。

もうこの辺でフランス語学ぶの辞めてしまおうかと思っている。旅することなしに言葉を学んでも仕方ない。言葉は話すためにあると思う。去年の今頃も辞めたくなった。3月病だろうか。そうかもしれない。数週間前までやる気満々だったのにもうやっても仕方ない気分になっている。今日の最後のレッスンの残り10分でフェードアウトしてもいいかなという気分になった。いや、このところ時間の無駄じゃないかと薄々気がついてはいた。語学はコミュニケーションの手段なのにそれを使ってやりたいことがないのだ。できることはある。フランス語圏の友人と話すことができるようになるだろう。でもそれは日本語を話したり、英語を話したり、中国語を話したりするのと本質的には同じで、新しいツールを手に入れるのと同じなのだ。それを使ってどうしたいのか?という問いに答えられなければその道具が使えることに意味はない。それが使えるようになったら、一体どうしたいのだろうか。

X線を使って結晶構造解析して新しい構造を発見したとしてもパズルを解いたという楽しさしか感じないのと似ている。そのパズルを作った自然の摂理とか、裏にある宇宙の深淵さなどに興味がなければ解けたって意味がない。いや、意味はあるだろう。新たな発見をするのはいいことだと思う。しかし私はこの世界に何をしにきたんだろうか。

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