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人生の種明かし

うちの息子はサボテンが大好きで、ベランダにはコレクションが並んでいます。この夏、一つの鉢からサボテン以外の芽が出てきたのでビックリ仰天。これは一体なんだろうかと思いを巡らせていると、あることを思い出しました。それは二年前に息子がまいた枝豆の種です。

サボテンの隣に新しい芽が!

お寺の子供会でもらった栽培キットで種まきをしたのですが、あえなく枯れてしまいました。それを放置していたので、その土を使ってサボテンを植え替えたのです。おそらく、そこに種が混じっていたのでしょう。それが二年の時を経て芽を出した、というのが事の顛末。条件が整えば、何年前にまいた種であろうと芽が出るということを体験的に学ぶことができました。

じつは私たちの人生も全く同じで、私たちが《思ったこと》《言葉にしたこと》《行動したこと》は全て種まきにたとえられます。善いことも悪いことも、大きなことも小さなことも、何一つ漏らすことなく種まきとなり、私たちの人生をつくっているのです。

よって、いま目の前で起きている出来事というのは、過去に自分の手でまいた種から芽が出て、すくすくと成長し、花が咲いて実がなったということ。ただし種によって発芽の条件が違ったり、成長するスピードが違ったりします。桃栗三年柿八年というように、実がなるまで長い年月を必要とする場合もあります。

しかも、私たちの人生は今回だけに限りません。今日は昨日の続きで、明日は今日の続きなのと同じで、今回の人生は前世の続きで、来世は今回の続きです。携帯電話の機種変更をしてもデータが引き継がれるのと同じように、何度生まれ変わっても全てのデータは引き継がれていきます。

そのため前世でまいた種が今回の人生で発芽することもあれば、今回の人生でまいた種が来世で発芽することも起こり得ます。二年前にまいた種であれば思い出すこともできますが、前世のこととなると思い出すことができません。まさに「思い当たる節がない」という状況です。

もし、これが嬉しい出来事であれば「なんか知らんけどラッキー♪」で済みます。しかし、これが悲しい出来事、苦しい出来事だと、そうはいきません。「なんで私がこんな目に…」と思わずにいられないのは当然のことです。ただ、種をまいていないのに芽が出ることはありません。花が咲くことも実がなることも絶対にありません。

ということは、そこに何かしらの種があった。そして、その種をまいたのは自分である。仏さまは、このように「人生の種明かし」をしてくださいます。ここを基準に物事を考え始めるのが仏教的な思考であり、その思考に基づいて人生を築いていくのが仏教的な生き方なのです。

ただ、仏教を信仰しているからといって完璧な人になれる訳ではありません。悪い種まきをしてしまうこともあります。ただ、その時には過ちを認め、自ら回収することが大切です。そして、改めて善い種まきを始めることで人生の軌道修正が可能になります。人生には必ず種と仕掛けがあります。仏教的な思考と生き方でより良い人生を築いていきましょう。

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