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男女恋愛という自然選択、現代のアンビバレントなSEX。

男女関係というのは実にシンプルな構造をしている。

要するに種の繁栄を促すための生殖活動に、認知革命以後のサピエンスだけが有することが出来た叙情的で緻密な感情の動きが宿されたドラマを伴うだけである。

当たり前なことだが、SEXが大好きなのは人間だけに限らず全ての生物がそうである。

この世界ではあらゆる生物がその生存競争というデスゲームのなかで淘汰されないよう試行錯誤していくことで生物群全体の進化と生態系システムの構築を成し遂げてきたわけだ。
我々人間もその延長線上にあることを忘れてはならない。

生物学的特性は、ホモ・サピエンスの行動と能力の基本的限界を定める。歴史はすべてこのように定められた生物学的特性のアリーナの境界内で発生する。

と歴史学者のユヴァルノア・ハラリ氏は著書「サピエンス全史」にて記述している。

──現在コロナウイルスの蔓延により言説の信憑性が多少揺らいでしまったハラリ氏をこのタイミングで引用するのは些か異論の余地があるかもしれないが、それはハラリ氏の現状認識と未来予測においての慢心であって、全面否定は可哀想だろうということで今回はハラリ氏の研究を肯定した上でのトピックを扱うこととする笑──

人間は狩猟採集社会での生活の方が、文明化された定住生活よりも圧倒的に長い歴史を持つため、未だに肉体は当時のままあまり進化しておらず、社会構造だけが急速に変化してきたという話は、最近ではかなりマスにも降りてきた。

そこでよく語られるのは、一夫一妻制は人間のDNAに即していない非合理的なシステムだということだ。

狩猟採集社会では多数の異性とSEXをし、もはや誰との子供かも曖昧な子供をコミュニティ全体で育てていくという、血縁をあまり尊重しない共同体的生活様式であったため、特定のパートナー意外とのSEXはタブーとする現代の恋愛様式は本来の人間的ではないとする主張である。

しかし一方では、狩猟採集社会においても一夫一妻制が採用されていたのではないかとする主張もあり、結局のところ実際の生活がどんなものであったのかなどは証拠不十分なため、現代に生きる我々には皆目見当もつかない幻の時空間となっている。

先程引用したハラリ氏の見解では、コミュニティによってシステムも様々であったのではないかとしている。

つまり不特定多数の異性とSEXをするのが当たり前のコミュニティもあれば、特定のパートナーとしかSEXをしないのが当たり前のコミュニティもあり、それぞれが無数に乱立していたのではないかというわけだ。

たしかにこの説は一番腑に落ちる。
これなら恋愛相手に対して沸きあがる独占欲と、不特定多数とSEXをしたいという欲求が混在している事の説明がつくような気がする。

とすれば現代において、浮気癖のある人間。
かたや、一途を貫き通す人間。

周りを見渡せば、男女問わずこの2種が社会に混在していることは火を見るより明らかだが、それはその人間の祖先がどちらのコミュニティに属していたかどうかで説明がつくのではなかろうか。

もしそうであるのなら、世の中に蔓延する浮気や不倫といった現象は、単にそれを犯す者らの倫理観や愛情が希薄であるがゆえではなく、「そういう生物種」だからなのであり、仕方がないこととしか言いようがない。

生物種が異なる2者の間で互いに納得がいく恋愛関係を構築することなどほぼ不可能だ。キリンとイルカが恋愛しているようなものである。 どちらも哺乳類であるという点でしか共通していないにも関わらず、その一点だけで仲間だと思い込んでいるからそういったアンビバレンスが生じる。
それはそれでなかなか面白いドラマを感じるかもしれないが、リアリスティックではない。

理論的に理解するのと、感覚として理解するのとでは共感の解像度に大きな差異があるため衝突は免れ得ない。

もしあなたが、つい浮気をしてしまう性質をもっているのであれば、同じく浮気癖のある人間と、サルトルとボーヴォワールのような必然と偶然とを兼ね備えた恋愛を楽しめば良い。

もしあなたが、一途に特定の異性だけを愛し続けることを美徳とし、相手にもその意志を求めるのであれば、同じくそうである人間と、ジョン・レノンとオノ・ヨーコのように互いの意識が一体化するような関係を楽しめば良い。(元々オノ・ヨーコはジョンの不倫相手だったわけだが笑)
ということになる。

いずれにせよ、個人には目に見えない、経験を伴わなければ帰ることの出来ない住所が与えられているのだ。

適切な場所に身を置くには、健康な観察眼と自らの選択肢を限定する潔さが必要なのではないだろうか。

経験というものは、人が知識において進めば進むほど、その必要性を感じさせるものである。
ルネ・デカルト

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