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大食は強運の源

極真空手の創始者である大山倍達は、弟子たちによく「大食は強運の源だ」と言っては焼肉を食わせたりちゃんこ鍋を振る舞ったりしていたという。
しかし、当時の大山家は貧乏暮らしだから、弟子たちにご飯を振る舞う度に奥様が大山倍達の一張羅の革靴を持って裏口から質屋に行き、金の工面をしていたようだ。この貧乏ながらも弟子たちに栄養を与えたことが、強い弟子を育てることとなり、そのことが空手団体として世界的な組織となった極真会館の礎となったことを考えると「大食は強運の源」という言葉はあながち馬鹿にならない訓話なのである。
そういうわけで、我が家では一人娘が物心ついたころから「大食は強運の源」という言葉を語ってきかせていたのだけど、寝言で「食べたり飲んだりだーい好き♡」なんてことを口ばしったりするような娘からすれば「何を当たり前のことを言ってんだろう」と思われていたのだろうと思う。しかし、俺の稼業である病院でのリハビリにとっては、まさに「食べるところに福来る」で、食指が落ちることは即、生命が脅かされることに繋がる前兆だったりするのだ。

例えば、リハビリで言うと維持期に当るデイケアで勤務していた時のことだが、毎月測定している体重が、何ヶ月も連続して減り続けるようなことがある人がいると、それが入院の前兆になった。食べる量が減り、体重が減ることを若い人は喜ぶけれど、体力の落ちた老人の体重が減ると、筋量もごっそりと奪われることになる。もしくは、身体の免疫力が下がったりする。
そんなわけで、転倒して骨折したり、熱発から肺炎を引き起こしたりして入院したりすることとなる。だから、デイケアにいる時は老人たちの食事時間によく「大食は強運の源」という標語を連発してはウザがられていたものだ。

では、食べられなくなった人はどうなるのか?という問題がある。飲み込むと食道ではなく気管の方に食べ物が入ってしまい、そこから肺炎を起こす。いわゆる誤嚥性肺炎という奴である。
老人になり、嚥下、つまりは飲み込む能力が落ちてくると誤嚥性肺炎を起こすようになってくる。
そうなると、誤嚥をしないような刻んだ飲み込みやすい形態の食べ物にしたり、トロミを付けた水などを飲ませたり、誤嚥しにくいものを食べさせることになる。それでも誤嚥を起こしてしまう人に残された道が「胃瘻」と呼ばれる直接胃に栄養剤を流し込む方法である。
鼻から胃カメラの要領で管を胃まで差し込んで栄養を送る方法もあるが、これは二週間くらいで管を交換しないといけないから、長期的に使用するなら、「胃瘻」が選択されることが多い。
俺が初めて胃瘻の患者さんを担当したのは、一年目の時で、その患者さんは脳出血の影響で飲み込む機能が全くダメになっており、胃瘻をされた人だった。
その方は体幹がグラグラで、背もたれなしで座る練習から始めて、立ち上がる練習、歩く練習などを行った。体幹が弱いので腹部に力を入れるトレーニングをしてたら、その度に大量の便を脱糞してしまい、始末に難渋したのは良い思い出だ。
その時は何故こんなに脱糞するのか不思議だったが、栄養剤を使うと便秘になる方が多いらしく、その対策として下剤を使われていたことを後に知ることとなり納得した。経管栄養には、点滴ではなく内服薬を摂取させることができる、というメリットもあるのだ。
そんなこんなでリハビリをしていたのだが、一緒に担当を組んでいた言語聴覚士が、最初は発声や発語のリハビリを行っていたのだが、本人が「水を飲みたい」と訴えが強いので嚥下の練習も開始した。
画像的に嚥下障害が強く出るとされている場所なだけに、期待せず試してみたら、少量ずつならゼリーが食べられることがわかった。そこから、トロミのついた水、刻んだ野菜、という風に徐々に食形態を上げていき、ついには半分は口から栄養を摂取できるような状態にしてしまった。
こうなると俺を苦しめていたトレーニング中の脱糞も、下剤の使用が減ったおかげでスムーズに行くようになり、補助具を使って歩行練習が出来るようになって晴れて回復期リハビリ病院に転院して行った。
さらに驚くべきことに、一年後、完全に口からの食事で栄養を賄えるようになり、胃瘻を外しに病院にやって来たのだ。あれにはたまげたな。

言語聴覚士の伝家の宝刀エンゲリード。このサイズを見たことない人に説明するのに一番適してるのが、チキンマックナゲットのバーベキューソースの容器だ。

その後も、一時的に胃瘻や鼻からの経管栄養を使用したが、後に口から飲み込めるようになった人たちを沢山見てきた。トータルで言えば、経管栄養から卒業した人は一割くらいか?前に読んだ文献で二割くらいはそのポテンシャルがある、と書かれていたんだけど、その決め手となるいくつかの要素は俺の職種と関係ないから忘れてしまった。
けれど、一番大事なのが覚醒である、という点については覚えている。それは、飲み込み以外のリハビリにも共通するポイントだからだ。
そして二番目は嚥下、つまり飲み込むトレーニングをしているか、そうでないか、ということだった。
だから、言語聴覚士は他のリハビリ職種たちと情報交換して、覚醒の高い時間帯にリハをするよう工夫をする。なんなら、俺たちのリハが終わり車イスにに座らせた状態のタイミングを狙って介入することもあるし、そういう段取りをすることもある。
こちらも、栄養剤と口から入る栄養の差は嫌でも知ってるから、言語聴覚士の援護射撃になるようなことはいくらでもする。首が後ろに反る人を反らないようにするための練習とか、完全に言語聴覚士の仕事のための露払いみたいなこともやる。だって、口からの栄養摂取が大事なのは身に染みてわかっているからだ。

と、ここまで胃瘻や鼻から栄養を入れる経管栄養まつわる体験を語ってきたんだけど、基本的に口から栄養摂取した方がいいことには賛成なんです。けれど、鼻とか胃から管でしか栄養取れない時期の人たちがいて、そこから脱出できるチャレンジの機会まで、一括りに奪われてしまうこともたくさん見ているんだよ。

そういう風に口から栄養を取ることが出来ない状態から卒業する人もいるんだが、大多数の人はそこから卒業できないわけです。けれど、飲み込みが悪いだけで、活発な生活してる高齢者もいたりすることを、世間には伝わってないよね。
”飲み込む能力は悪いけど、喋ることも言ってることも筋が通っているし、毎日歩行練習してる”
そんな人もいるし、寝たきりの人もいる。さらには、車イスに乗り移りは自分で出来て、車イス操作してトイレも手伝いなしで出来てるけれど、大雑把な記憶で家族と愉快に話をする人もいる。
俺はよく「病は個性だ」と患者さんに言うんだけど、同じ病でも、症状が全然違うことが多い。
“多様性のある社会”と政府も言ってるんだけれど、嚥下能力が低下した人はその一員になれないんですかね?そこに認知症が加わると自己決定の権利すら奪われてしまうから、前述した二割くらいの可能性のチャレンジすら奪われてしまう。

そこで思うのが、輸血とか手術なんですよ。あれって、すごく不自然に人を生かせる行為じゃないですか。
俺も昨年、咽頭腫瘍で手術したけど、手術の間は人工呼吸器つけられ、尿道に管を突っ込まれてたんですよ。
開口器で口開けっ放しだから、すげー唇に黒あざできたけど、まぁ、不自然な医療行為の代償として受け入れざるを得ないですよね?それしないと死のリスクがあるんだから。
手術、点滴、輸血、人工呼吸器、透析。医療とは、自然治癒とはかけ離れたことをする世界なんです。
で、話は胃瘻に戻ります。非人道的な行為でありますが、尿道に管突っ込んだり、喉奥に管突っ込んで全身麻酔での呼吸を確保することと違いありますか?
糖尿病の人がインスリン打つことと、胃瘻で食事することに違いありますか?
認知症で自己決定権のない人だから、インスリンを注射せずに見殺しにします?そんなことしないでしょ?そこが、ここ二十年くらいに日本人が変わったことだと思いますね。
人の命が軽くなりましたよ。「自己責任」という言葉のおかげで。

術後、喉の奥を撮ろうとしたが、口が大きく開かなかった。下唇には開口器で固定されて出来た瘢痕が生々しく残っていた。

経済的な余裕がなくなりました、というのが本質かもしれない。介護にお金をかけられない。それは、政府が支援をしてくれないからだ。
姥捨山かよ?と思うことが多いよ。ヨーロッパやアメリカの人たちが経管栄養を断ち切る理由にする「人間的な生活」というものが、今の日本で達成されていますか?という疑問もある。
そもそも、人間的な生き方をこの国の人してるか?って。主張もしない。多数に流される。そんな人たちが、個人を尊重しない人たちが生きるか死ぬかの選択を、認知症ということで奪われて命を落としているということを知って欲しい。
その選択をした家族のみなさんの事情もわかります。医療も、行きすぎてはいけないということに最近は転換しているが、基本的に我々は命を助けることを基本としている。
「では、殺す方向でお願いします」
そんなの嫌に決まってるよ。家族さんも嫌なのわかるけど、悩んでその選択してるから口にも出さないけど、せめて緩和ケアの病院に入れるとかしようよ、って思うんですよ。
けど、そういう特別な病院少ないし、そういうとこに金かけない日本の社会保険システムがどうにかならないと、急性期病院で生きるか死ぬかのギリギリのラインで点滴与えられ、胃腸から栄養与えられず衰弱死するケースは後を経たないでしようよ。

経管栄養抜かれて点滴とかで水分とか、必要最低限の電解質しか与えられない人の死は凄いよ。
体重半分にまで減った人を見たことある。その人の最後の言葉は
「お水ちょうだい。くれないの?」

その言葉を発してその人は意識喪失して、何日か後に心不全を起こしました。最後の言葉の前も前も基本的に「お水ちょうだい」の繰り返し。病院には、そういう人の怨念が満ち満ちているんです。
これが人間の尊厳に満ちた死に方か?って話ですよ。水に飢え、空腹に飢え、それが人間らしいか?解釈によっては苦しみを訴える元気があるから人間らしいんだけど、そういう人には栄養与えたほうがいいよ。
医療人も自分が胃瘻するかについて否定的な人も多いけど、そいつらはたいがい二日以上の絶食とか経験していない。ファスティングとか甘いものじゃないからな。

今、そういう家族の方針で経管栄養を外される予定の患者さんのリハビリをしている。その患者さんは経管栄養のおかげで、内服薬の効果も出てきて、だんだん元気になってきた。経管栄養を抜く、と家族が選択した時よりもかなり良くなっているけれども、家族は「それでも最初の方針で」と言う。
リハビリの介助があるとはいえ、手すりのない場所を歩ける人の栄養まで抜くというのだ。
認知症になる、ということは自己決定権を奪われてしまうということだ。本人は「起きたい」「家に帰りたい」と言っても家族が「グソー(冥土)に行きたいと言ってるんですよ」という解釈をしてしまう。そして、それが通る。

俺のできることは、目の前の患者さんが動きたい、歩きたい、という意思を示す限りその仕事を全うすることしかない。
主治医も治療をしたい人だから、この人はもっとより良い生活を送れると、様々な治療を試し、覚醒の悪さからパーキンソン病を疑い、その内服薬の効果で元気になった。
誤嚥性肺炎で入院したが、そもそも誤嚥を起こした原因にパーキンソン病があり、その治療をしてなかったから、覚醒が悪くなっていたことがわかった。だから、“最初の方針”ではなく、“今”のこの人を見て欲しいと訴えたけれど、家族さんの意思は固かった。歩ける人の栄養を奪う選択をした。

人間らしいってなんなんでしょうかね?人間らしくなくても、尊重される個人ではいけないのですか?人間らしくない、というのは、「鬼滅の刃」の鬼みたいな存在なんでしょうか?読んだことないけど。
けれど、民俗学的に鬼の存在は、外国人や村社会からはみ出た集団の暗喩であるとされています。そういう意味で、「胃瘻」を見た自民党の国会議員の「エイリアンのようで人間のように見えなかった」という発言は「自分たちと違う」という所が的確だからこそ、実に差別的な見解であると言わざるを得ません。

ここまで長ったらしいことをかいてきましたけど、ここ最近の胃瘻に関するネガティブなイメージがあまりに多いことに辟易していることから、あえて書きました。
胃瘻には、治る見込みのない病を進行にまかせて延命させてしまうという、悪い側面もあります。無意味な心臓マッサージが敬遠されることと同様、それは理解できます。
しかし、胃瘻も心肺蘇生も目的と適用が正しければその人を救うことができます。でもそれを「方法が好きじゃない」という一点で拒絶されると、医療側ではどうしようもありません。救える命を救えなかった、けれど、家族の意向だった。
それって信仰と輸血拒否の事例を思い起こさせませんか?俺は咽頭腫瘍の術後もタバコを吸ってるし、医学的に正しいことだけが人を幸せにするわけではないとも思っています。
だからこそ、認知症の人であっても人格はあり、その人生が豊かなものであって欲しいと願っています。
安らかな死のためには、緩和ケアが必要だと思うけれど、口から栄養を摂れない人間に栄養を与えないことが安らかなものなのか?というと疑問しかないのです。


術後の最初のメシが、傷に染みた。というより、飲み込もうと喉を動かすこと自体が耐えがたい苦痛だった。それでも、食べることの大切さを知っているから、必死で食べた。全部食べきれなかったが、術絆は腫れた。痛みをこらえながら「大食は強運の源」と自分に言い聞かせた。

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