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嘘でも、そこに実がある。失われれば空虚になる。

先だって東京で「DAIJOBU」という素晴らしいドキュメンタリーを観ることができたのですが、それから一カ月も経たないうちに、またも素晴らしいドキュメンタリーをヨーリーから教えていただきました。
それはNHKでやっている「ドキュメント20min」という番組の中の「ニッポンおもひで探訪-北信濃 神々が集う里で〜」という作品でした。

NHKは「ノーナレ」とか「ドキュメント72時間」とか、他局で出来ない番組を作る会社(非営利だからこそ出来るとも言えますが)なんですけど、この「ニッポンおもひで探訪」はまさにNHKのドキュメンタリーに対するこだわりというものが炸裂しまくったトンデモない作品でした。

舞台は信州の山村地帯。そこを、旅人の宍戸開さんが、ふらりと“沓津”という集落を訪れるところから作品は始まります。
集落を流れる川で釣りをする老人や親子。マムシ取りをしている老人。そして、「食いしん坊万歳」のような展開で宍戸開を郷土料理でもてなすおばあちゃんたち。
そんなひなびた農村の光景が繰り広げられ、村に伝わる“奉納獅子舞”を見せてもらい、田舎の風景を堪能して番組が終わる。と見せかけて、“そこから先”に描かれる内容が、この番組の真の描きたいドキュメンタリーになる、という実に面白い構成になっています。
あまりに面白い内容なので、後半の話はなるべく触れないようにして書いていきたいのですが、それは不可能なので、ここから先はこの作品を未見の人にはあまり読んでほしくありません。
俺はネタバレとか関係なく作品を楽しめるんですけど、この作品に関してはちょっと魔法のような仕掛けになっているので、それを事前に知らずに見た方がより楽しめるのではないかと思います。

で、この後半部なんですが、現在この村には一人も生活していないことが明かされます。かつて人が生活していたが、現在は誰もいない。つまり、廃村した村落だということが明かされます。
かつて村には分校もあり、他地域の学校に通えない村落のために教師を派遣して教育を受けさせていたりしたわけです。小さな集落を維持するために、電力会社も電気を引いてあげ、ガス会社はガスを供給し、そういう村を支えていたわけです。
しかし、こうした限界集落に公共インフラを与えることは「コスパが悪い」という流れになるのは必定です。作品では、「高度成長期のなかで農業が衰退したため」というような理由を字幕で流していましたが、それなら、何故に集団で離れる必要があったのか?という疑問がのこります。
“離れざるをえなかった理由”というのは、必ずしも“農業が衰退したため”ではなかったのであろうことは想像に難くありません。
番組の中で沓津集落を「県内随一の豪雪地帯にある」と紹介しています。豪雪地帯で山村であれば、道は閉ざされる。
そういう地域に電気、ガス、水道、そして消防や医療といった生活インフラを供給することの困難さから、行政が廃村を持ちかけていったのではないか?というのが俺の想像なのですが、その辺は短い尺のお話なので触れられませんでしたが、そういう想像の余地を与えるような新聞記事の写真の使い方が面白かったです。

そして、村祭りとそこで奉納される「獅子神楽」です。村人たちの唱える祝詞のような神歌に合わせ、雅楽と言うには粗末な横笛だけの演奏。そして、その横笛が明らかに下手くそなことに前半部では驚かされます。
しかし、その理由が、かつての村の祭りを再現しようと番組の企画に賛同した村民たちが、廃村以来、五十年ぶりに「獅子神楽」をやろうと奮戦して行く流れで感動に変わるのです。
それは、「失われた自分たちのアイデンティティを取り戻す作業」でした。

五十年前の記憶を辿っても、かつて踊っていた神楽を思い出せない。写真に残っていても映像にない。音声もない。それをかつての村民たちが皆で手探りで思い出し、体を動かし、歌い、笛を吹き、再現していく。
かつての祭りとは程遠い拙いものであることは百も承知で、それでも、今度こそは映像に村祭りと獅子神楽を遺すことができる。その想いと、老人たちの衰えた肉体と声量の対比。熱い気持ちに応えられない肉体のもどかしさ。

俺はこの後半部で落涙していました。人生とは、そういうものなのです。後悔や無念はいくらでもある。しかし、努力でそれを取り戻すこともできる。それでも、時間というものは取り戻すことができない。その切なさに涙したのです。
そして、老人たちが拙い獅子神楽をやり終えて素直に「やって良かった。さもないと消滅しちゃうから」と言う感想にも、映像に残せたという意義と、自分たちは写真と記憶だけを頼りに再現に挑んだ、という達成感とが感じられたわけです。

獅子神楽。神のために歌い、奏で、踊る。自分のためではない。だからこその神事の尊さが、えがかれていた。カッコよくやるとか、そういうことではない。信仰の原点とは、こういうことだと思う。郷土愛から派生する郷土の神への崇拝。

沖縄でも、イザイホーという琉球王朝を支える巫女たちが行う最高級の神事があったのですが、五十年途絶えています。
この神事は久高島という聖地とされる人々の手で行われることとされているため、久高島から人が離れていけば巫女になる人の絶対数が減り、最高級の神事を行える巫女の数が不足して取りやめになっているのです。
最後に行われたイザイホーは映像にも記録され、その秀逸な音源を宮里千里さんが録音し、CD化もされています。
それでも、イザイホーを復活させることは難しいのです。何故なら、巫女は久高島に生まれ、久高島の聖地としての役割を知り、そこから発生する郷土愛を根幹として信仰の力を炸裂させるからこそ、意味のあることで、人だけ集めて形だけの儀礼をやっても、それはコスプレでしかないのです。
だから、イザイホーは復活出来ない。しかし、沓津の獅子神楽は、拙いものではあっても、“遺したい”という沓津の老人たちの気持ちがそれを実現させた。
“失ったものを取り戻す”ということは、とてつもなくたいへんなことなんです。俺らの業界ではリハビリテーションと呼びますが、美しくなくとも、出来なかったことにチャレンジするという、彼らの姿を尊く感じてしまった次第です。

まだ語り足りないんですけど、長文になったのでここらで切り上げようと思います。
ヨーリーはドキュメンタリーとしてこういう作為的な方法をあまり好ましく感じてないようですが、この作品の前半後半を逆にすれば、そういう問題は解決するんです。
企画として、離村した無人集落の祭りを再現するため、村人たちが奮戦するドキュメント。そして、出来上がりに宍戸開がそこを訪れてみんなでかつてあった集落で「食いしん坊万歳」をやる。前後が逆になれば、ある目的を達成するため人々が頑張るドキュメントになるんですよ。

かつて、原一男は「全身小説家」という映画で、経歴詐称ばかりする井上光晴という作家を撮りました。というか、撮ってるうちに井上光晴の虚言を積み重ねて生きている人生に気付いて、どうこの人を描くべきか?と悩み、ついにはドキュメンタリーなのに過去の生い立ちの再現ドラマなんか入れてしまうんですよ。
嘘つきにはこちらも虚像、アンチリアルで対抗する、ってわけです。
そういう意味では、この「ニッポンおもひで探訪」なんかは、再現するまでを描いているわけで、立派なドキュメンタリーだと思いました。そして、失われたものを再現することの難しさ、そして、こうしたものは日本中にあることを示唆してくれた素晴らしい作品でした。

何が本物なのかわからない世の中にあって、編集次第で印象は変わるものです。そんななか、ちょっと奇抜な編集をしているものの、しっかりと名もない人たちの失われた生活をドキュメンタリーにして残すような作品を作る人々がいたことに感銘を受けました。このような作品を紹介いただき誠にありがとうございました。
寒い季節になりました。くれぐれもお身体に気をつけて。

武富一門 ryo_king

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