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鶏が生み出した課題

栃木県へ引っ越す前、食材はスーパーで買うのが当たり前だった。ところが栃木県にあるアジア学院でボランティアをすることがきっかけで自給自足を体験し、自分の食べ物を自分の手で作ることに目覚めた。野菜を種から蒔いて、畑で収穫したものをその日に食べる。田植えと稲刈りを経て米を手に入れる。鶏小屋から集めて来た卵で朝ご飯を作る。自分の手で屠殺した鶏を肉にして食べる。今でも世界中ではこのようにして食物を確保している人たちは何百万人もいるだろう。スーパーではなく、自給自足が当たり前だ。いずれスーパーで食材を買うにしても、自分で作るにしても、野菜やお米、卵やお肉を食べるにはものすごく苦労と時間が必要だということを忘れてはいけない。以前も書いたように「インスタント」はない。感謝の気持ちを持たずに食べるべきではないと言いたいぐらいだ。

夫婦で農業を始めたとき、先ず野菜から作り始めることにしたので、お米やお肉はまだ外から買う必要がある。ただ、自給用に鶏を二羽飼うことにした。以前は鶏を何百羽(これも何万羽も飼っている養鶏場と比べたら小規模だけど)飼っている環境に居たので、二羽だけを飼うことは小規模について考えるきっかけになった。最初に思ったのは、小規模になればなるほど感謝の思いが増す。何百羽も飼っていると、スーパーではないが、毎朝卵があって当たり前。ところが、二羽しかいないと今日は卵がないかもしれないということになる。一個あるだけで大喜び。二個ある日はお祭り騒ぎ。そして、その貴重な卵をどのように食べるかを真剣に考える。一個を二人で分けるか。溜めておいて、次の日に一個ずつ食べるか。玉子料理を我慢して、代わりにパンやお菓子作りに使うか。一個一個を大事に食べる。

また、小規模だと卵を食べられることに感謝が増えるだけではなく、卵を産んでくれた鶏への感謝も増える。何百羽の鶏を飼っていると、どの鶏が産んでどれが産んでいないかは分からない。でも、二羽だけだと少なくともこのどちらかが産んでくれたと分かる。「お前たち、ありがとう!」とその鶏たちへの感謝の気持ちが現れる。ちょっとご褒美をあげたくなるぐらい嬉しい。ちなみに、我が家の鶏へのご褒美と言えば、家で捕まえたコウロギや干し魚の頭、特別な日はエビの殻である。卵が食べられることに感謝!この鶏たちが産んでくれたことに感謝!これは小規模だから味わえる喜び。

と…ここで記事をめでたく終わらせる予定だった。ところが、時間が過ぎてある頃からとんでもないことに気が付いた。わたしたちの可愛い鶏ちゃんたちは自分で自分の卵を食べ始めていた。殻ごとキレイになくなるまで!一週間も卵を採れず、とうとうスーパーまで卵を買いに行ってしまう始末だった。夫と作戦会議をし、原因を探り、なんとかして解決方法を見つけ出そうとした。鶏小屋の中には卵を産む「産卵箱」と言う部屋があり、下だけ空いているので、卵はそこから転がり出る仕組みになっていた。ところが、何らかの理由で転ばなかったり、転んでもまだ嘴の届くとこりにあったりすると鶏は突いて食べていた。そこで、夫はピタゴラスイッチ風に、卵が箱の外まで転がって、完全に産卵箱から離れ、カンの中に転び落ちる仕組みに変えてみた。すると、数日はかかったものの、見事にカンに入るようになり、再び卵を食べられるようになった。完璧なシステムではないので、今も卵がうまく転ばず、食べられてしまったり、地面に落ちてしまったりすることもあるが、幸い二日に一度は採れるようになった。

この「事件」を通して、わたしは小規模の大変さを思い知った。そして、大事な気づきが与えられた。スーパーに行けば、いつでも卵は買えるので、何も考えないで食べ続けられる。万一、一つの会社が潰れたとしても、別の会社が卵を出してくれる。鶏もその鶏を育てている人も顔がなく、自分とは関係ない世界にいるので感情が働くことは先ずない。何百羽の鶏を自分で飼っていると確かに責任がある。ただ、一羽、二羽がその日に卵を産まなくても、食べてしまったとしても、大した問題ではない。実際に産卵率は良くても70%だった。また、一羽、二羽が卵を産まなかったとしても、「この鶏が悪いんだ!」とまで言えない。多過ぎて見分けがつかない。(一羽ずつケージに入れているなら分かるかもしれないけれど、それはそれで他の問題多あり)。ここで言いたいのは、鶏を二羽しか飼っていないと、その二羽に問題があると直ぐに自分が影響を受ける。そして、「何で産まないんだ?!」「何で自分で食べるんだ?!」とその鶏に対して苛立ちを感じる。「この鶏が自分の卵を食べ続けるなら、捌いて鶏ごと食べるよ!」と夫に言ったぐらいわたしは怒った。つまり、小規模だと感謝の気持ちが深いと同様に怒りも深いということに気づいた。

感情の問題で終われば、まだ面白い話で済むかもしれないけど、小規模や自力で何かをすることの脆弱性は笑い事ではない。わたしたちの場合は自給自足を目指していても、車で10分行けばスーパーがある環境に住んでいる。鶏が卵を産まなくても、自分の卵を食べても、別の卵を買いに行くことはできる。大切に育てている野菜がたとえ自然災害や害虫に完全にやられたとしても、スーパーに行けば野菜が手に入る。経済的なダメージはあるかもしれないが、飢えることはない。焦りも恐れもなく農業ができるのは本当に贅沢だなと実感した。世界の中で自給自足をしている多くの人たちはどうだろうか。日々食べる物があるかどうか保証がない分、自分が育てた物を無事に食べられたら感謝いっぱいだと思う。しかし、予測できない天気や生き物に頼って生きていることの不安もあると思う。思い通りに行かない時にはわたしみたいに怒りを覚えるかもしれない。労苦をしなくても簡単に手に入る食物を欲しているかもしれない。

大規模の農業や畜産、国際企業、スーパーマーケットは環境や働き方、人の心に良い影響を与えているかどうか疑問はたくさんある。しかし、小規模の自給自足の現実はキラキラした理想より複雑なものであることも確かだ。我が家の鶏に対する感謝と怒りが自分の中にある矛盾を示してくれた。二日に一回の卵を待つか、諦めてスーパーで買うか、別の道を探すか。今も迷っている。

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