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【関ヶ原合戦 年表③】慶長5年(1600年)7月~

豊臣秀吉の死去の慶長3年(1598年)8月16日を起点として関ヶ原合戦の全体像を年表としてまとめています。

関ヶ原合戦の研究は、笠谷和比古氏の「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」をはじめ多くの研究成果が発表されており、新事実が明らかになっています。そこで私は、個々の学説を「関ヶ原合戦」という通史として捉えた時に、はたしてどのような流れになるのか、自分なりに内容を吟味しながら全体像を把握してみたくなり、年表としてまとめることにしました。

いよいよ関ヶ原合戦の本戦に突入です。

(前回の記事はこちら)

慶長5年7月

7月2日 徳川家康、武蔵品川にて子秀忠に迎えられ、江戸城に入る(「板坂卜斎覚書」他)。

7月7日 徳川家康、会津出陣を7月21日と決め、15ヵ条の軍令を下す(「大洲加藤文書」他)。

7月12日 前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行、徳川家康と毛利輝元に上洛を要請する(「秋田家文書」『吉川家文書』)。

7月12日 この頃、石田三成・大谷吉継に関する風聞が拡がる(『慶長年中卜斎記』)

7月14日 三奉行、大坂の諸大名の屋敷を制圧し、諸大名の妻子を大坂城中に人質として収容しようとする。

7月17日 毛利輝元、大坂に到着する。

7月17日 三奉行、徳川家康の罪科十三ヵ条「内府ちがいの条々」を挙げ、諸大名に家康討伐の檄文を送る(「筑紫古文書」『薩藩旧記雑録後編』他)。

7月17日 細川忠興の妻ガラシア、人質の収監を拒み、自害する。

7月19日 毛利輝元、大坂城西ノ丸に入り、豊臣秀頼を擁立して西軍の総帥となる(『義演准后日記』「下文書」)。

7月19日 この頃、徳川家康、江戸において石田三成・大谷吉継の謀反を知る(「松井家文書」)。

7月20日 大谷吉継、細川忠興の老臣・豊後杵築の城代松井康之に、豊臣秀頼のための助力を要請する(「松井文庫所蔵古文書」)。しかし、康之、これに応じず。

7月21日 徳川家康、予定通り会津征討のため、江戸を出発する(「大洲加藤文書」他)。

7月24日 徳川家康、下野小山に着陣する。

7月25日 徳川家康、小山に諸将を集めて西軍の決起を告げ、会津征討の延期と西上を決める(「大関文書」他)。

7月29日 石田三成、近江佐和山より伏見に到着する。

7月30日 大谷吉継、信濃上田の真田昌幸・信繁(幸村)父子に上方の情勢を伝え、豊臣秀頼のための助力を求める(『真田家文書』)。

慶長5年8月

8月1日 西軍、伏見城を攻略する。城代鳥居元忠、松平家忠ら、戦死する。

8月2日 前田利長、弟利政と加賀大聖寺城を攻略する。城主山口宗永・修弘父子自害する。

8月10日 石田三成、美濃大垣城に入る。

8月12日 徳川家康、細川忠興に但馬1国の加増(「細川家文書」)、加藤清正に肥後・筑後を与えることを約束する(「加藤文書」)。

8月14日 徳川家康、志摩国鳥羽の九鬼嘉隆の子守隆に、南伊勢5郡を与えることを約束する(「古文書集」)。

8月20日 石田三成、島津惟新に美濃墨股を守らせる。

8月22日 福島正則・池田輝政ら、木曽川を渡り竹ヶ鼻城を攻落し、岐阜城に向かう。

8月23日 福島正則・池田輝政ら、織田秀信の美濃岐阜城を落城させる。
秀信は降伏し、剃髪して後に紀伊高野山に入る。

8月24日 西軍鍋島勝茂ら、古田重勝の伊勢松坂城に攻落する。

8月24日 東軍東海道先発隊、赤坂の岡山を占拠する。大垣城に対峙する。

8月24日 徳川秀忠率いる東山道(中山道)西上軍、下野宇都宮を出発し、信濃へ向かう(『浅野家文書』『真田家文書』)。

8月27日 毛利秀元、伊勢安濃津城を攻落する。

8月26日 石田三成、美濃大垣城を離れ、近江佐和山城に帰る(『義演准后日記』)。

慶長5年9月

9月1日 徳川家康、兵3万を率いて江戸を出発、西上の途につく(「福島文書」)。
徳川秀忠、信濃軽井沢に至る。

9月2日 大谷吉継、越前より美濃に入り、山中村に陣す。

9月2日 徳川秀忠、小諸に到着する。

9月3日 徳川家康、小田原に入る(「徳永家文書」)。

9月4日 徳川家康、伊豆三島に到着する。

9月5日 徳川家康、駿河清見寺に到着する(「大洲加藤家文書」)。

9月6日 徳川家康、駿河島田に到着する(「福島文書」)。

9月6日 徳川秀忠、上田城の真田昌幸を攻めるため、染谷村に陣を構える。

9月7日 徳川家康、遠江中泉に到着する(「稲葉家譜」「丸亀市立資料館所蔵文書」)。

毛利秀元・吉川広家、伊勢より美濃に入り南宮山に陣を構える。

9月8日 徳川家康、遠江白須賀に到着する(「妻木家文書」)。

9月8日 小早川秀秋の使者、徳川家康の宿所に至る。

9月9日 徳川家康、三河岡崎に到着する(『譜牒余録後編』)。

9月10日 徳川家康、尾張熱田に到着する。

9月10日 徳川秀忠、上田城攻めを中止し、小諸を出発する。

9月11日 徳川家康、尾張熱田にて藤堂高虎と面会し、次いで清洲城に入る。

9月13日 徳川家康、尾張清洲を出発し、岐阜に着陣する(「早稲田大学所蔵荻野研究室収集文書」『譜牒余録』)。
先鋒の諸将来謁す。

9月13日 細川幽斎、後陽成天皇の勅命を受けて丹後田辺城を開城する。

9月14日 徳川家康、岐阜を出発し、正午頃、美濃赤坂に到着する。

この夜、西軍、大垣城を出発、関ヶ原方面へ移動する。
赤坂の東軍、これを受けて赤坂を出発し、関ヶ原方面へ移動する。

9月15日 京極高次、降伏し、大津城を開城する(『萩藩閥閲録』)。

9月15日 美濃関ヶ原において東軍・西軍が激突、東軍が圧勝する。

9月16日 東軍、石田三成の佐和山城に軍勢を進める(『言経卿記』)。

9月18日 東軍、佐和山城を攻落する。石田正継・同正澄ら、自害する。
徳川家康、平田山で佐和山落城を見物する。

9月18日 徳川家康、近江八幡に到着する(「福島文書」)。

9月19日 徳川家康、草津に到着する(『当代記』)。

9月19日 小西行長、伊吹山中で捕えられる(「竹中文書」)。

9月20日 徳川家康、大津城に入る(『言経卿記』)。
後陽成天皇、家康を慰労するため、勅使を派遣する(『御湯殿上日記』)。

9月21日 石田三成、伊吹山中で捕えられる(「田中文書」)。

9月21日 肥後隈本の加藤清正、小西行長の同国宇土城を攻落する。

9月23日 安国寺恵瓊、京都で捕えられる。

9月23日 西軍、美濃大垣城を開城する。

9月25日 毛利輝元、大坂城西ノ丸を退去する。

9月27日 家康、大坂城西ノ丸に入る(『言経卿記』「板坂卜斎覚書」)。

9月30日 池田輝政、長束正家の近江水口城を攻落する。正家、自害する(『舜旧記』)。

慶長5年10月

10月1日 石田三成、小西行長・安国寺恵瓊ら、京都六条河原で処刑される(『言経卿記』)。

10月2日 上杉景勝の老臣直江兼続、美濃関ヶ原の敗報を受け、出羽最上より撤退を開始する(「櫛田文書」)。

10月15日 この頃、徳川家康、関ヶ原における諸大名の論功行賞を行う(『伊達家文書』)。

(完)

参考図書

笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』吉川弘文館 2007年

光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』角川ソフィア文庫 2018年

白峰旬(編)『関ヶ原大乱、本当の勝者』朝日新書 2020年

水野伍貴『関ヶ原への道 豊臣秀吉死後の権力闘争』東京堂出版 2021年

藤井壤治『徳川家康』(人物叢書)吉川弘文館 2020年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館 2017年

外岡慎一郎『シリーズ・実像に迫る002 大谷吉継』戎光祥出版 2016年


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