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そこでは誰もが凡庸ではなかった。少なくとも誰もが、普通ではなかった。~モダン仙禽・亀の尾を飲みながら~(前編)

どうもこんばんは、りょーさけです。

日に日に眠りが深くなっております。深すぎて迷惑なくらいです。起きにくいデス。危うく遅刻しそうになりますです…。
あと、久しぶりの布団が重いですね。年々体が不自由になっていくのを感じます。元気なお年寄りって本当にすごいんだなあ。

とまあ老いと寒さを感じつつ、ちょっとあたたかくて若い(?)話をひとつ。
最近ちょいちょい昔の話をしています。あ、自分のです。で、よく考えるとあんまり楽しい話を書いていなかった気がします。

ですので、ちょっと記憶の中を泳ぎまして楽しかった話を捕まえようかと。大学の話は「留年した」としか話してなかったんですが、もちろん楽しかった話もあるのですよ。

…という話をする前に、今宵のお供を紹介いたします。先日も紹介した栃木の仙禽。これはモダン仙禽、亀の尾です。仙禽レギュラー酒にはモダンタイプとクラシックタイプがあります。モダンは酒単体でも十分満足できるくらいの華やかなタイプ。クラシックタイプはお料理とも合わせられる少し落ち着いたタイプです。「亀の尾」は使っているお米の名前です。

や、この間の赤とんぼのお酒でも感じましたが相変わらずおしゃれですね。

では、話に入りますか。
大学三年生の頃、つまり21歳。今から7年前の話ですね。
その頃僕は早くも頑張りたいと思っていた哲学で躓いていました。躓くいたのは内容というよりコミュニティです。

率直に言って馴染めなかった!笑

基本的にみんな暗いし、同じ哲学でも興味持ってること違うし!
上級生たちは新入生歓迎の飲み会なのにすぐ自分たちで集まって「ハイデガーはそんなこたぁ言ってねぇんだよ!!!!」とか涙を流して語ってるし。

(まあでも最後のやつは今思うととてもいいことだよね。日々くだらんニュースが多い中で「ハイデガーが…」なんて気にする人世界にそうそういないだろうから。素敵です。)

そんなこんなで僕は哲学科以外の講義をよく取るようになっていました。国語学やヨーロッパ史学…文化人類学とか?
今考えるとそれらの中にもなんでこの講義とったんだろって思うものはたくさんあったのですが、一つだけ今でも心に残っている講義があります。

今でも忘れないそれは木曜の2時間目。時間にして10時半~12時まで。「批評」の講義でした。通称(?)木2。そのまんまだけど。

その教授は見るからに大学教授…というよりはちょっと威厳にかける気もするのですが、その砕けた感じが生徒に人気の教授でした。酒も飲んでないのに普段からちょっと酔ったような雰囲気があり、ニコニコと言うより若干ニタニタした感じでした(失礼かな?)。酒は一滴も飲めない方なんですがね笑

仙禽亀の尾うまいなあ。
華やかなパイナップル香、少し熟れてる。そこからの浮ついてない甘旨。甘みが深い。舌にじんわりと染み入るような甘さだ。どこか懐かしい…どこか漂う和菓子感。浮ついていないのは、複雑味があるからでしょう。

酸味を中心とした複雑味。酸味の腰の位置が深い。歴戦の横綱の取り組み直前のような厚みと静かな迫力。いざ味わえば、取り組みが始まればその厚みと裏腹の機敏さ、俊敏さが全面に出てくる。深くして鮮やか。軽薄ではないけれど決して野暮ったくはならない。
洗練された技術を感じますね。

…と、今思い出しても何回も世話になったなあ。教授には。元気かなあ。

その批評の授業の独特さはまずコンセプトにありました。大学の講義は基本的に研究の仕方を学ぶもので、特に概論なんかだと今までの先達たちが積み重ねてきた手法や考え方をとにかくインプットすることが多いです。ですがこの講義に関してはそういった手法の学習などは一切なく、むしろ文学作品や映画作品などを自分の言葉で表すことを求められます。

今考えるとこれは「印象批評」というやつですね。客観的な証拠を足がかりにして作品を論ずるのではなく、受け手が作品から受け取ったテイストをベースにして作品を論ずる。そんな感じのスタイルです。

教授が毎週文学・映画作品を1つ持ってくる。それをみんなで鑑賞する。次の講義までにA4一枚程度でレポートを書く。それをみんなの前でプレゼンする。そういったことを一年通してやる講義でした。

教授、とかくとやっぱり厳かすぎるので呼称を「先生」に変えますね。実際みんな先生先生呼んでいましたし。

今考えるとその講義の影響があってこういう文章を書いている気がします。酒に関する文章もそう。

「自分の印象を大切に。それを言葉に表す。」というコンセプトを採用したことについて、先生には先生なりの理由があったのだと思います。が、おそらくそれとは違う意味で僕にとってもそれが大切だった。そんな気がします。

今でも、大切です。

あの空間では、ひとりひとりの人間がすがたかたちはそのままにまばゆく輝いていた。確かに、光っていた。はじめは鈍かった。みな良くない意味で人を気遣っていた。それが段々と自分に集中していく。いつしか光った。そんなふうに思うのです。

仙禽は素晴らしい。この素晴らしさを皆がそれぞれの言葉で表したら一体どうなるのでしょう。

もしかしたら、そこに一つとして同じ表現なんて現れないんじゃないだろうか。ふふふ。

今日はここまで。仙禽に乾杯!

酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。