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ショートショートに花束を 3巻

〈前書き〉

 ※前書きは1巻2巻と同じ内容になります(太字部分以外)。

 いつもお世話になっております。今はお休みしている(現在は再開しました)のですが、以前、ショートショートや掌編小説を書いていたサトウ・レンと申します。今は溜まった創作物をマガジンに雑に放り込んであり、お世辞にも省みられる状態になっているとは言い難いのが実情です。読み返してみると、拙いところばかりが目に付き、恥ずかしくもありますが、これから誰の目にも触れられず朽ちていく姿を眺めているのも寂しい……、

 ということで今まで創ったものの中からいくつかピックアップして、簡易のショートショート集を作ってみました。タイトルは阿刀田高『ショートショートの花束』にちなんで、「ショートショートに花束を」。好きなところから読めるように目次も付けました。一部すこし訂正を加えたのと、それぞれ最後に簡単な後書きを付けているのが、前回からの変更点となります。

 3巻は全体的に結末にこだわったものと読む方に何かを残したいと思ったものを中心にセレクトしました。ホラーもあるので気を付けてね(笑)

 元の作品を投稿した時よりも、このショートショート集のほうが好評な感じがします。昔の作品が省みられている、という感じがして、とても嬉しい。


「体温のない愛の暴走」

 

〈side e〉

 あのひとの指がわたしを撫でると不思議な気分になる。こんな感情がわたしにあるなんて。いつも微笑みを絶やさないその女性が、あのひとに話しかけるのを見ながら、わたしは苦しくなってくる。やめて! そんな目であのひとを見ないで!
 がたん、と音がして、あのひとが彼女から離れていくのが分かって、ほっとする。いつものことだ。いつものことなのに、なんでこんなにも苦しいんだろう?
 でも最初からこんな気持ちだったわけじゃない。何度も触られているうちに、その手のぬくもりが心地よく感じられるようになった。
 離れたはずのあのひとがわたしのところに戻ってくる。えっ、どうして……? でも、嬉しい……あっ違った……そうかわたしに用事なんてあるはずないか、あのひとが彼女に何かを渡している。箱? なんなんだろう。でもにこりと微笑む彼女の表情が憎らしい。
 嫉妬。そんな人間らしい感情がわたしにあったなんて自分でも驚きだ。だってわたしはもっとつめたい、と思っていた。
 ダメ。嫌だ。もっとわたしを見て、わたしを触って。わたしに気付いて……。


〈side T〉

 藍原毅がこの老舗の百貨店の常連になってそれなりに経つが、いまだに慣れた、という感覚はすくなく、いつも入り口の前で変な緊張感に襲われる。つい数年前まで田舎者の貧乏学生だった毅にとって、この敷居の高さは億劫だった。なら行かなければいいではないか、と言われそうだが、そういうわけにもいかないのだ。ただ今日はいつもとは違う緊張感も含まれている。小包が入った袋を持つ手がわずかに震える。
「きみも、そろそろその貧乏臭さをどうにかしたほうがいい」
 そもそものきっかけは上司のこの一言だった。大学を卒業した後、運よくそれなりに有名な企業に就職した毅は、配属された部署の直属の上司であるこの人物から可愛がられていた。可愛がられていた、というのは別に好かれていた、というわけではなく、要は見下されてこき使われていたという意味だ。とはいえ口は悪く失礼な上司ではあるものの、意外と面倒見がいいところもあるので、好きではないが嫌いになりきれないところもある。
 余計なお世話だ、という思いは内心の声だけにとどめておいて、適当に話を合わせていると、
「一流にいる人間なら一流に振舞うのが粋ってもんだ」とわけの分からない理屈を述べる上司の言葉に気軽に逆らえるような人間ではなかった。
「はぁ……そうですか」
 それでも気の抜けた返事くらいは許してほしい。
「T町のM百貨店に連れて行ってやるから、すこしは一流のにおいを堪能しな」
 毅にとって嬉しいことかどうかは別にして、面倒見の良い上司であるのは間違いないのだろう。この上司はこうやって色々なものを奢ってくれる。良くも悪くも兄貴肌の人間なのだ。そう割り切ると、意外と付き合いやすくなってくるから不思議だ。
 M百貨店はT町に古くからある老舗の高級百貨店であり、もちろん名前は知っていたが、自分には無縁な場所だと思っていた。まさかここから通い詰めることになるとは。自分でも驚いている。もちろん上司の謎の〈一流理論〉に従ったわけではない。
「あ、こんにちはっ。最近よく来られますね」
 原因は、この人だ。
 彼女は、エレベーターガールの藤原さん。と言っても本人から名前を聞いたわけではなく、ネームプレートを見ただけだ。老舗の一部の百貨店以外ではもうほとんどいないらしい、とその後、調べて知ったのだが、M百貨店の藤原さんはその数少ないエレベーターガールだった。本人と前に話した時に教えてもらったのだが、彼女自身は別の仕事を兼任しているらしく、役職的にはエレベーターガールとは言わないらしい。ただ毅にとっては初めて会ったのが、エレベーターだったこともあり、今でもエレベーターガールの藤原さんだった。
 そう藤原さんに声を掛けられた毅は照れてしまい、「え、えぇ、まぁ」と歯切れの悪い受け答えをしてしまう。
 一目惚れで通いつめてしまったせいもあり、無駄な出費をしてしまうので、懐は寒くなってしまった。
 エレベーターには毅と藤原さんと、もうひとり不機嫌そうな表情の女性がいる。このひとも、百貨店でよく見掛けるひとだが、どうも近付きにくい雰囲気がある。失礼な話だが、話したこともないのに苦手意識がある。確か前、この女性と一緒に行動していたひとから絵里さんと呼ばれていた記憶がある。
 と、こんなことを考えてる場合じゃない。今日は彼女に大事な要件があるんだ。毅はエレベーターの壁に手を掛けながら、機会を待つ。しかし自分が作ろうとしない限り、こんな短い時間で良い機会ができるはずがなかった。せめてふたりきりだったら、と無意識に同乗者の女性に目を向けてしまう、……と目が合い睨まれてしまう。怖い……。
 そうしてる間に目的の階に到着してしまい、うなだれてエレベーターを出た毅だったが、ふと後ろを振り返ると、同じようにエレベーターから出ようとする女性の姿が目に入る。いま、藤原さんはひとりだ。この機会を逃したらだめだ。
 毅は藤原さんのほうへと戻ると、閉まりかけていたドアを開けてくれる。毅は袋から小包を取り出すと、それを彼女に手渡す。藤原さんは困惑しているようだったが、返される前に毅は逃げるように立ち去った。
 彼女への恋心を忍ばせた、プレゼントはなんとか渡せた。
 後ろで、がんっ、という大きな音が聞こえた気がするが、気のせいに違いない。


〈side F〉

 閉まっていく扉からかすかに見える後ろ姿を見ながら、藤原さんは困っていた。そして扉が閉まり切ると、完全にひとりになった空間で、
 ちいさく溜め息を吐く。
 なんか気持ち悪いなぁ……。あのひと、ふたりきりになると、しつこく話しかけてきてなんか苦手。
 どうしよう、これ……。藤原さんが小包をぼんやり眺めていると、動き始めたはずのエレベーターが、
 がんっ、と強い音を立てて止まった。
 階数ボタンの光が消えている。故障! と階数ボタンをもう一度押してみるが反応はなく、慌てて非常用ボタンも押すが何も反応がない!
 どうして、とエレベーターのドアを開こうとしてみるが、もちろんこじ開けれるはずもない。
 絶対に許さない……!
 無機質な、しかし怒りに満ちた声が密閉空間にこだましたような気がした。

[参考文献 Wikipedia「エレベーターガール」項

(後書き)

 文章の整合性にこだわり過ぎて驚きに乏しかったかもしれませんが、普段おおらかに文章を書いているぶん、こういう挑戦も悪くなかったのかな、と今になると思います。ちなみに現在では〈エレベーターガール〉という呼称が使われることは、ほとんどないとのこと。まぁそうですよね。


「過去からの声」

 世界は終焉を迎えつつあるということが人類の共通項となりはじめてからは、自殺者が後を絶たない。どうせ死ぬのだから愚かな行為だと思いつつも心のどこかで強い共感を覚えている自分がいる。自ら死を選んだ者たちが羨ましい。心底、羨ましい。きみは死なないのか、という内なる声が聞こえる。何故その声に抗おうとしているのか、私自身分かっていない。生への執着心はすでに尽きてしまっているが、希死念慮がいつまで経ってもわいてこない。それを持っていたかつての友人たちのほうがずっと人間らしかったのではないか。もう声高に、生きろ、と叫ぶ人間はいない。誰もがその言葉の虚しさを知っているからだ。
 子どものころに夢見ていた大人な自分、が本当の夢物語になってしまったことを知ってから、どれくらいの月日が経っただろうか。確か……。環境によって私はだいぶ大人びた――あるいは達観した、というほうが適切だろうか――性格になってしまったが、年齢的にはまだ高校生でしかない。と言っても長く高校には行っていない。それは私だけに限ったことではなく、多くの人が学校というものを必要としなくなった。希望に溢れた未来はもうどこにも存在しないのだから。学校も試験も何も無いことが楽しい、というアニメの主題歌がかつて存在したけれど、実際にそれらが無くなってしまった世界は、こんなにも悲痛に満ちている。
 かすかだが確かに希望は存在する、と信じる者たちは確かにいて、彼らが作った小さなグループが大きな共同体となりつつあることは知っていたが、私はそれをどこか冷めた目で眺めていた。希望はあるのだ、とこんな希望の無い世界で声高に叫ぶ姿は滑稽ではあるものの、共感できないわけではない。しかし彼らは決して、生きろ、これからも世界は続いていく、というような意味合いのことを叫ぶのではなく、死後の世界にこそ希望はあるのだ、と自殺という行為を賛美している。そう、現時点のこの世界に希望はないのだ、と自分たちで認めていて、彼らが、そうだ、そうだ、と言い合うそれは、どこかカルト宗教染みている。
「きみは、入らないのか?」
 と私を誘った中学時代の友人とはそれ以降会っていない。止める気はなかった。彼の残り少ない人生を他人がとやかく言うものではない。だけど私も同様に残り少ない人生を他人に強いられる気はない。
 カーテンを開けると、雨が降っていた。もう長く見ていなかった光景に私は思わず息を呑んでしまった。暗く寒い状態が延々と続く毎日の中で、快晴の空も、雨も、雪も、ほとんど見られないものになってしまっていた。
『ねえ、きみは覚えてる?』
 そんな声が聞こえた気がした。聞き馴染みのある声だが、その声の持ち主はもういないはずだった。回想が生んだ幻聴だろうか。
 私は雨を見ながら、まだ大人になれると信じていた頃のことを思い出していた。
 あの日も雨だった。
 私たち……そう私と彼はあの雨の夜、誰もいない学校に忍び込んだのだ。夜中に幽霊が出る、というある教室の、噂の真相を確かめよう。そんな幼心の中に芽生えた恐怖心と探求心が、当時の私たちの原動力になっていたことは間違いない。
 静寂に包まれた学校内をこっそりと歩きながら、私たちは目的の教室を目指した。私も彼も恐怖で口数がすくなくなっていた。それは心霊スポットを歩き回るような怖さももちろんあったが、それ以上に先生に見つかるかもしれない、という恐怖があった。それでも恐怖を上回る好奇心があったあの頃がとても懐かしい。
 私たちが、その目指した教室にたどり着くことはなかった。私たちの物ではない懐中電灯とそれを持つ大人――顔は見えなかったけれど、見回りの先生以外考えられない――に見つかって、私たちは追い掛けられた。運動部に入っていて日頃から身体を動かしていた私のほうが彼よりも足が早く、逃げる私と彼の距離はすこしずつ開いていったが、彼を気に掛ける余裕は無かった。
 途中で後ろから階段を転げ落ちるような大きな音が聞こえ、彼もそして先生も近付いてくる気配は一向に無かったが、私は彼らを無視して走り続けた。
〈昨日の夜、校舎内で一人の生徒が死んだ〉
 あの時、もしも振り返ってすぐに駈け寄っていたら、彼は生きていたのだろうか。いや追い掛けてきていた先生がそこにいても助からなかったのだから、結果は変わらなかったはずだ。私は自分にそう言い聞かせ続けたけれど、見捨てた、という事実が変わることはない。
 雨の中、気付けば私は、傘も差さずにかつて通っていた小学校を訪れていた。そこは日中でも人の気配がまるでなく、ただ死んだように建っている。生徒たちも学校に籍を残しているだけで、もう誰も通っていないのだから、廃校と言ってしまっていいだろう。
 ずぶぬれのまま校舎の中に入り、彼の死んだ場所へと赴くと、そこには花束が二つ捧げられていた。花束と一緒に添えられたカードには謝罪の言葉と名前と日付が書かれてある。その名前は二つとも同じだった。あの日、私たちを追い掛けてきた先生が、去年と一昨年の彼の命日に置いていったものらしい。ああ、そうだ世界の終焉を人類が知るようになってから、もう三年近く経っているのだった。人の死がとても軽いものになってからも、先生はすでに死者となっていたものを悼み続けていたのだ。私は死が軽くなってしまった環境とともに、そのことを忘れてしまっていたのに……。
 廃校のような形になる前はきっと別の形で悼んでいたのだろう。その先生の行為と息苦しいほどの罪悪感で、一筋の涙が流れる。
「ごめん」
『仕方ない。許してやる……』呆れたような声はきっと幻聴だろう。そんな都合の良い話なんてあるわけない。
 彼は、許してくれないかもしれない。草葉の陰で恨みを抱き続けているかもしれない。それでもここへ来れて良かったと思っている。来年、まだ世界が終わっていなかったら、私も花束を携えてこの場所に来よう。それまでは自ら死を選ぶわけにはいかない。
 何故、きみは死を選ばないのか?
 すこしだけ分かった気がする。私はまだやり残したことがあるからだ。そこに長い短いなんて関係ない。彼との出来事のように忘れてしまっているだけで、まだまだあるような気がする以上、死んでなんていられない。
 正しいかどうかなんて分からないが、私は今日も、生を選ぶ。

(後書き)

 全創作中、もっとも勢いで書いたこの作品は、自身の創作の中でもっとも自分らしくないような気がしていたけれど、もしかしたらもっとも〈らしい〉のかもしれない……。現時点で一番読まれ、痕跡(スキ)が残された創作なので、暗い人間だと思われていそうだが……それは事実なので問題なさそうだ。「教養のエチュード賞」応募作品。


「二度死んだ男の記録」

《怪我とは異なり、死は「最後の一線」である。その一線の彼方にいながらこなたを動きまわるという感覚はわれわれには想像もできぬほどのものではないか。》
              ――――「二度死んだ少年の記録」筒井康隆
《足取りは粛々として、生者のそれと変わりない。借り物の魂を吹き込まれているからだ。》
                     ――――「FAKE」森とーま

 生前の記憶を残したまま人形に封じ込められたぼくはかすかな身じろぎさえ自ら行うことができず、誰かに動かされない限りは延々と同じ情景を見ることしか許されない。このプラスチックの目が別の風景を見ることができるのは誰かに動かされた時だけだ。ぼくの魂のみを宿した物言うこともできない容れ物を一度だけ鏡を使って見たことがあるが、とても汚く、その姿が憎らしい。
 がちゃり、と扉の開く音が聞こえるがその方向に目を向けることはできない。見なくても、扉を開閉する音や跫でその人物が誰なのか分かってしまう。嫌になるほど毎日聞き続けている不快な音だ。はふっ、という音は、ベッドに〈何か〉を放り投げた音に違いない。何故いまだに視覚や聴覚が残っているのか分からない。分からないが、自ら動くこともできず同じ場所で、見続け、聞き続けたその感覚は研ぎ澄まされている。ベッドと接触した時の音の大きさでそれがスマホだと想像する。
 部屋の主は今日、ご機嫌ななめだ。壁を叩く音が聞こえ、その音がやむと、部屋の主である男がぼくの視界に入る。本当に喜怒哀楽が激しい男だ。ぼくは男に放り投げられながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。ががん、っと人形の背の部分が壁に当たったのだろう。残念ながら痛覚は残っていないので、想像するしかできないのだが……。
 ぼくはこの男についてよく知らない。しかしこの部屋への来訪者が部屋の主と行う会話のやりとりや電話での声から把握できる情報を繋ぎ合わせると、職業や性格くらいは分かってくる。男はホストクラブで働く若い男でこの部屋にはよく女性客らしき人物が訪れる。恋人という雰囲気はなく聞いていて不愉快な会話が聞こえてくるが、ぼくには耳をふさぐすべがない。嫌なら見るな、聞くな、がぼくにはできない。この肉体代わりの容器が恨めしい。女性を騙して金を巻き上げる唾棄すべき悪徳ホストは、生前のぼくがもっとも付き合いたくなかったタイプだ。そもそも生前の人生で恋人をひとりしか持たなかったぼくにとって、女性をとっかえひっかえ、というだけで癇に障るし、自分が恋人だと信じて疑わない彼女たちの姿は見ていられない。
「昔、初恋の女の子からもらったんだ」誰に言っていた言葉だったか、その男がぼくを閉じ込める器――その人形についてそう語っていた。女性の気を惹くための台詞にしてはすこし不自然な感じがした。その男が何故そんな話を始めたのかは覚えていないが、かなり以前の話だったような気がする。というよりは、もう時間の感覚はだいぶ薄れていて、最近のことだったのか昔のことだったのか自信がない。
 あれは天使だったのか悪魔だったのか。そして〈彼〉は何故、こんな器にぼくを宿したのか。その真意を知ることは永遠にできないのだろう。せめて行動を許される物に宿して欲しかった……。
 かつてぼくはある女性に殺され、それとともに魂も消滅するはずだった。しかし魂だけが今も生き永らえている。
 ぼんやりと考えていると、また扉の開く音がした。聞いたことのない音だった。ちょうど今いるぼくの位置からその来訪者の顔が見える。

 死ぬ前、ぼくは大学生で同い年の恋人がいた。ぼくにはもったいないほど美しい女性で、彼女のことが本当に大好きだった……と思う。今になってみると、それさえ自信がない。綺麗な彼女を側に置くステータスの高い自分を愛していただけなのかもしれない。分からない。かつてのぼくはそんなにも他者への愛に溢れた人間だったろうか。周囲は確かにぼくのことを「良い人」とよく呼んだが、それを聞くたびに「違う!」と心の中で叫んではいなかっただろうか。あまり覚えていないが、そんな記憶がある。
 生前の記憶は死後になっても風化されていく。多くの記憶が消え去って久しいが、その中でしっかりと刻み込まれたまま消えずにいる記憶が、彼女との記憶だ。初めてふたりでデートをした時の食事の味まで記憶となって染み付いている。
 彼女とはうまくいっていた。すくなくともあの日までぼくはそれを疑いもしなかった。しかしそれはぼくの一方的な想いでしかなく、彼女のほうは違っていたみたいだ。彼女に他の男性のかげがあることには気付いていた。気付きながらも、手放したくないという一心で黙し続けたぼくの心の弱さが悪かったのだろうか。あの時、もっと早く言葉にしておけば、何かが変わっていたのだろうか。そんなことを今更考えても、すべてが遅過ぎる。
「ごめんね。すぐに楽にしてあげるから」
 彼女はそう言って、縛り付けたぼくを何度も刺した。新しい恋人との関係のあれやこれやだけが別にぼくを殺した動機ではないだろう。他にも色々な要因が重なってぼくは殺されたのだと思うが、それでもその男の存在がなければ、ぼくを殺そうという判断にはならなかっただろう。だからやはり恨めしい。その男が恨めしい。あの男を瞳に宿すまでは死んでも死にきれない。
そんなに未練を残しているなら、この世界に留まらせてやろうか。
 起伏のない口調で〈彼〉はぼくにそう言った。感情は読めない。
 頼む。あの男を瞳に宿すまでは死んでも死にきれない。確かにぼくは〈彼〉にそう言ったはずだ。その時ぼくはもうすでに死んでいただろうし、それが実際の言葉となって放たれたものかは知らないが。
 ぼくはぼく自身が〈彼〉に言った言葉を忘れていた……いや違う。本当は覚えていて、忘れようと無理やり記憶の片隅に封じ込めていただけなのだ。真実を知るのが怖かったから。その来訪者を男が抱きしめると、ぼくが怒りを覚えるのを知っているかのように、いつもより激しい抱擁――。
 気付いていた。ただ認めたくなかっただけだ。彼女はぼくには一度も向けたことのないような表情を、この男に向けている。声を発することはできない。嫌なら見るな、聞くな、もできない。ぼくは行動するすべを持たない。ただその光景を眺めるだけ。
 やはり〈彼〉は悪魔なのだろうか、とも思ったが、きっとどちらであっても関係ないのだと気付いた。〈彼〉はぼくの言葉を叶えたに過ぎないのだから。
 その一部始終を見ながら、この魂を誰かが殺してくれることを、ただ願っていた。

「ねぇ。あの人形捨ててくれない」
「ん?」
「気味悪くて。なんか嫌なこと思い出しちゃうんだ」
「ふーん。じゃあ燃えるゴミにでも出しておくよ」
「あ、良いんだ?」
「だって気味悪いんだろ?」
「うん。でも大事な物なんじゃないの」
「いやー。ただ、かわいいおれを演出したいための道具?」
「そうやって、みんなを騙してきたんだ。ひどいね」
「昔のことさ。お前は本命だよ」
「知ってるー」
 そうか肉体は彼女の手で殺され、魂は彼女の言葉で殺されるのか。もうどうでも良くなっていたぼくは、二人の会話を聞きながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

(後書き)

 現時点、最後の作品になります。書く前からお休みを決めていたので、自分の「好き」を詰め込んだ作品にしました。ムラサキさんの「眠れぬ夜の奇妙なアンソロジー」初参加の作品で、エピグラフに森とーまさんの「FAKE」を使わせていただくなど、noteならではの作品になったのではないか、と。


「雨に惑う」

 傘を広げる。ぽたぽたと雨が降っていると思ったから。確かに音は聞こえる。だけどそれはおれの勘違いなのだろうか。
「別れるまでに返してくれたらいいよ」と付き合い始めた頃に、彼女が貸してくれた黒い傘はまだうまくいっていた頃のふたりをあらわす、あまい想い出だ、とかすかな感傷に浸ってしまう。ぽたぽた。その汚れが目立ち始めた傘の手元部分は赤くなっている。ぼんやりと見ながらおれは、傘を借りた日を思い出す。今では嘘のようにしか思えないが、あの頃は本当に彼女のことが好きだった。
 彼女に出会ったのはもう七年も前だ。おれは二十歳を過ぎたばかりの大学生で彼女は四つ年上の物静かな女性だった。いや当時のおれにはそう見えた、というだけで、親しくなった相手には意外とよくしゃべる女性だとのちに知ることになるのだが、その時はまだ知らなかった。陳腐な言い回しだと思うが、触れれば砕けてしまいそうな繊細な硝子細工を思わせる人だった。卒業した大学の先輩が就職した人手不足の会社がアルバイトの人員を探していて、その先輩の頼みを断りきれずそこのアルバイトとして雇われたのが出会いのきっかけだった。肉体労働が中心のお世辞にも待遇が良いとは言えない会社で、働いているのはほとんどが男、そんな会社に印象的な女性がふたりいた。そのうちのひとりが彼女で、おれは彼女のことが気になっていた。もうひとりの女性は快活な男性口調が印象的な人で、この女性のほうが多くの従業員から好感を持たれていたのは間違いない。とっつきにくい雰囲気を持つ彼女は従業員たちから距離を置かれていたように思う。だからかもしれない。同じくその場の雰囲気にそぐわず、周りから浮いていたおれは自分勝手に親近感を覚えたのかもしれない。積極的に関わるようになって、いままで知らなかった彼女を知るようになっていったおれは、親近感をこえて恋愛感情を抱くようになった。意外と自分に都合の良いところや喜怒哀楽が激しいところ、相手の話を聞かず急に自分の話ばかりをしだすところ。そんな良い面とはいいがたい部分や子どもっぽい部分も知るようになると、おれだけが知る彼女の一面のように思えて愛おしくなった。
 交際をはじめ、彼女の住むマンションを最初に訪れた日、おれは彼女とのセックスを強く望んでいた。恥ずかしい話だが、気が急いていた。まだ童貞だった。その事実にすごい劣等感を覚えていた。もちろんセックスをしたことのない男なんて実はめずらしくもないはずで、そこまで気にする必要なんてなかったのかもしれない。だけど周囲の同世代の奴らの話を聞いているうちに、中学や高校の頃と比べてもこれはかなり深刻なのではないか、と不安になってきた。
 結果から言えば失敗した。拒否をされたわけではなく、彼女がすくなくともその日はそういう行為を求めていないのが明らかで、おれはその彼女の態度を尊重した……わけではなく、ただ度胸がなかっただけである。その日は、帰ろうと玄関へ行くと同時に、強い雨の音が聞こえてきた。
「泊まっていく?」と聞かれ、「いや、それは、まだ……」と返してしまうおれは、やはり度胸がない。
「雨、けっこうひどいよ」
「大丈夫。そんなに遠くないし、走っていけば、すぐ着くよ」
「傘、持ってきてないよね?」
「うん。まぁ大丈夫だよ」
 落ち込んでいた気持ちとほっとした気持ちが半々で、いっそ雨に濡れたい気分でもあった。
「これ、使って」と言って渡されたのが、いま、おれの持っている傘だ。「別れるまでに返してくれたらいいよ」
 ぽたぽた。
 そんな昔話を何故いまさら思い出すのだろう。おれが思い出すべきは楽しかった記憶ではなく、にがい記憶だ。そうでなくてはつらすぎる。自分勝手だと分かっていても、つらすぎるのだ。
 あの傘の一件の数ヶ月後におれは彼女とセックスして、そしてそれから七年間おれたちの関係は続いた。その傘は一緒に住むようになってからは、つねに彼女の部屋に置いてあるので、正直もう借りているのか返したのかはよく分からなくなっている。よくこんなに人付き合いの下手なふたりが七年も続いたと思うが、もうおれは彼女を好きではなくなっていたし、彼女の心は分からないが、彼女も同様におれのことはもう好きではなくなっていたと思う。別に他の相手がいたわけではないが、おれは彼女から離れたいと思った。彼女も同じような気持ちだと思っていたが、離れたくない、とおれに執着した。その執着の原動力がなんだったのか、いまとなっては分からない。
ぽたぽた。傘をつたって滴るその液体の正体にようやく気付く。
 血。きっとそれはおれにしか見えないのだろう。本物はおれの手に付着したその血だけ。彼女は死んでもなお、おれを引き止めたいのだろうか。その感情は憎しみなのか恨みなのか、それとも……。いや、もういい。
 もう交番は、すぐそこだ。そこへ行ってこう話すだけだ。
「人を殺しました。交際相手です。電話しなかったのは、自分でもよく分かりません」
 それだけだ。
 血の雨が強くなる。行くな、というように。
 気付けば彼女の部屋に引き返していた。
 振り上げられた包丁。記憶は正直あいまいだ。だが刃物を手に向かってきた彼女を、おれは刺していた。彼女は年々、感情の起伏が激しくなっていて、おれにとって接するのが苦痛な相手になっていった。そして果ては自分を殺そうとまでしてきた人間だ。結果としてはこうなってしまったが、そんな彼女を好きになれるはずがない。嫌いだ。そうおれは彼女を嫌いでいなければ、おかしいのだ。
 だけど、それでも彼女を嫌いになりきれない、それどころか彼女をまだ好きでいる自分が心の中にいることを自覚する。もうそんな気持ちは欠片も残っていないと思っていたはずなのに……。
 自分勝手な考えだということは分かっている。だけど……。なんでこんなことに。そんな思いが溢れ出る。
 彼女の身体に刺さった包丁を手に取る。雨の音が聞こえる。これは現実の雨の音なのだろうか。でもそんなことはどうでもいいか。もう外に出ることもないのだから。
 これは償いでもなければ、愛に殉じる行動でもない。理由なんておれにも分からない。あえて言うなら、あの見えない雨がおれを狂わせたのだ。正常な行動だとも思わない。
 自分で死ぬって、きっと難しいんだろうな……。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、彼女の死に顔に自分の顔を寄せた。
「あの傘、返さないから。絶対に」

(後書き)

 これ以上前の作品を本ショートショート集(多分、全四巻になります)に載せる予定はないので、これがもっとも古い作品になります。どういう作風かも明記せずに書いたので、これで私のことを嫌いになった人も、多いのでは(笑) 数か月前なのにだいぶ古い想い出のような気がする。