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ショートショートに花束を 2巻

〈前書き〉

 ※前書きは1巻と同じ内容になります(太字部分以外)。ホラーが苦手な方は青春、恋愛小説中心の1巻をお薦めします。

 いつもお世話になっております。今はお休み(追記 復帰しました)しているのですが、以前、ショートショートや掌編小説を書いていたサトウ・レンと申します。今は溜まった創作物をマガジンに雑に放り込んであり、お世辞にも省みられる状態になっているとは言い難いのが実情です。読み返してみると、拙いところばかりが目に付き、恥ずかしくもありますが、これから誰の目にも触れられず朽ちていく姿を眺めているのも寂しい……、

 ということで今まで創ったものの中からいくつかピックアップして、簡易のショートショート集を作ってみました。タイトルは阿刀田高『ショートショートの花束』にちなんで、「ショートショートに花束を」。好きなところから読めるように目次も付けました。一部すこし訂正を加えたのと、それぞれ最後に簡単な後書きを付けているのが、前回からの変更点となります。

 第二巻は、私の一番好きなジャンルであるホラー作品でまとめました。ここに収められた作品が私の本性なのですよ(笑)

 小説を紡いでいた時は、自分の欠点ばかりが目に付き、読まれたいけど読まれたくない、という愛憎相半ばするような想いを自身の作品に抱いていた。不思議ですね。いったん距離を置いてから自分の作品を眺めてみると、愛おしさのほうが勝り、読まれたいという気持ちが強まるのですから。


「二流には分からない」

 足の裏のひんやりとした感覚に、私は思わず「ひっ」と小さな悲鳴を上げる。足元を見ると、うすぼんやりとした人の顔のようなものが笑っている気がして、吐き気が込み上げてきた。私はこの顔を知っていて、ここ数年、ずっとこの顔に悩ませられている。この顔さえなければ……。恐怖は徐々に憎しみに変わりつつあるのを私ははっきりと自覚していた。
 ぴんぽん、とインターフォンの音が部屋中に響きわたる。この妙な威圧感を持つ音が昔から好きになれない。時計を見ると、時刻は23時30分。来客にしては非常識な時間だが、インターフォンの映像に映るその顔は、私がずっと待ち望んでいたものだった。
「夜分遅くにすみません……。ずっと時間が取れなかったもので」
「いえいえ! 先生が来てくれて嬉しいです」
 私が、先生、と呼ぶその人は学校の先生でもなければ、弁護士の先生でもない。夜中にサングラスをかける美しい女性。彼女は、本名どころかそのパーソナルに関するすべてがトップシークレットの霊媒師であり、私も初めて会った時にお付きの男性から〈先生〉と呼ぶことを義務付けられた。いかがわしく、高額な報酬を取ることは知っていた。それでも私はわずかな可能性にすがるように彼女を頼った。
「時間も時間だったので、日を改めようと思ったのですが……」
 先生は、マンションの二階にある私の部屋に入るなり、申し訳なさそうに言った。私は慌てて首を横に振った。
「気にしないでください。私のほうこそ無理言っちゃって」
 先生の後ろにはスーツ姿の堅気とは思えない雰囲気を纏う男性がいる。先生の付き人だそうで、先生と同様、会うのは二度目だが、どうも私は好かれていない感じがする。
「いえ言ってくださって、良かったです。実はマンションの近くに来たくらいから、異様な雰囲気を感じ取ってはいました。それに一昨日あなたを見た時点で、これはすぐに手を打たないといけないな、とも思っていたんです。わたくしにはこの状況を数年我慢したあなたの精神力のほうが信じられない」
「ずっと怖かったのですが、言い出せなくて……」
 私は数年前からある男の霊に憑かれている。それが誰なのか、私には分かっている。この世に生を受けて25年、間違いなく私をもっとも一方的に愛した異性だ。
「よく頑張りましたね」先生が突然、私を抱きしめる。その行為に驚くが、後ろの付き人はいつもの無表情を浮かべている。見慣れた光景なのかもしれない。後頭部を撫でさすられると、気持ちが落ち着いてくるのが分かった。「除霊ももちろん行いますが、わたくし共は、依頼主の心のケアはそれ以上に必要なことだと思っております」
 先生は本物かもしれない。今までにも何人か霊媒師に依頼したが、誰もその幽霊のいる場所さえ見つけることができなかった。
「先生は、どこに彼がいるのか分かりますか?」
「もちろん」と、先生が微笑む。「この部屋には男性の低い呪詛がこだましていますから。きっとそうですね……」
 あっ、この人は本物だ。私の足元を見ている先生の眼差しが私を安心させる。
「声が明瞭に聞こえてきますね。彼の執着の強さが分かります」
「恨まれているんですね」
「ただの逆恨みに過ぎませんよ。ね?」と付き人が私を見ながら、意味ありげに言った。
「その通りですよ」と先生がその言葉に続く。「では、一昨日の話を再確認させていただきますね。ただし嘘は言わないでくださいね。わたくしは幽霊の嘘はもちろん、人の嘘も見抜きます」
「分かりました」先生の言葉に私は思わず息を呑む。「あれは三年前のことです。合コンで知り合った男性――S、としておきますね――と意気投合して帰りを送ってもらったんです。周りからはやし立てられたのと、すこしお酒に酔っていたのもあって最初は乗り気で送ってもらったんですが、すこし時間が経って酔いが覚めてくると、家に上げるのは嫌だなって思い始めて、自宅……このマンションの前ですね、そこまで来たところでお別れしたい旨を告げたんです。怒ったらどうしよう、と不安だったんですが、その時のSは、全然構わないよ、という態度で連絡先だけ交換して別れたんです。良い人だなってその時は思ったのですが、Sは翌日から異常なほど私に電話してきて、私が無視し始めると、私の家の前をうろうろするようになりました。さらには玄関のドアをどんどん叩いたり、怖くて知り合いの男性に注意をしてもらいました。すこしの間はそれでSの行動はいったん収まったのですが、落ち着いていたのは数週間程度のことでした。またSは、私に執着し始めました。だけど前みたいに直接的な嫌がらせをしてくることはありませんでした。無言電話とか尾行とか、陰湿なものに変わったんです……」
 思い出すと息が苦しくなってくる。
「大丈夫」と先生が背中をさすりながらも、しっかりと先を促す。
「そしてあの日……あの日、Sが私の部屋にいたのです。私、驚いてしまって……。Sを突き飛ばしたんです。そうしたら彼はあのうすい嫌な笑みを私に向けて、部屋から出て行ったんです。合鍵を持ってる? なんで、って私、怖くなって……当分、友達の家に泊めてもらおうって決意しました。すぐに友達の家に行って事情を話したら、全然良いよ、って言ってくれて、翌日の朝、荷物だけ取りに帰ろうとしたら、部屋に死体があったんです。胸にナイフを突き立てた死体……」
「自殺していたのね」
「はい。私、どうしていいか分からなくて……警察を呼んだら、自殺ってちゃんと判断されて、私、最低かもしれないですけど、ほっとしたんです」これは偽りのない本音だった。「やっと彼から解放されるって……だけど、そこからが苦悩の始まりでした」
「それがこいつなのね」先生は、床にあるぼんやりとした彼の顔を踏みつける。もちろん彼の顔が痛がることはない。「分かった。ありがとう。ちょっと気になることもあったから、確認したかったの。除霊自体は簡単だからすぐに済むわ」
 先生はどこまで気付いているのだろう。……いや、気付くはずがない。

 除霊は、先生の言葉通り5分もかからなかった。この時間に対してこの報酬だということに、「法外だ」と喚く者も多いのだと先生は楽しそうに話してくれたが、三年間、この顔に悩まされた者にとっては微々たるものにしか思えない。
 もうそこにあの顔はなかった。
 マンションの入口で車に乗り込むふたりを、私は頭を下げながら見送った。

 部屋に戻ると、大きく深呼吸する。もうあの顔に一喜一憂しなくていいことが嬉しくて仕方ない。
 それにしても……、
 今までの三流霊媒師に比べればまだましだが、あの霊媒師の先生も一流には程遠かったな。霊だけを退治してくれる二流霊媒師。私がもっとも求めていた相手だ。何が『ただし嘘は言わないでくださいね。わたくしは幽霊の嘘はもちろん、人の嘘も見抜きます』だ。すこし疑ってはいたみたいだが、何が私の嘘かは分からなかったみたいだ。一流の皮を被った二流だよ、あれは。本当に都合が良い。
 私の唯一の嘘……あのストーカーは自殺じゃない。あの日、部屋にいた私が悲鳴を上げて助けを呼ぼうとすると、あいつはナイフを取り出して私に襲いかかってきた。そして揉み合いになって、殺してしまった。もちろん殺意があったわけじゃない。殺す気なんてなかった。でも正当防衛と認められるかも分からない。こいつのために欠片でも罰を受けるなんて死んでもごめんだった。とはいえ自殺に見せかける細工は簡単なもので、自分の指紋を拭き取ったり、ナイフや死体の位置を変えたくらいで、実は諦めも混じっていた行為だった。自殺と警察が断定したのは、本当に幸運だった。あいつがストーカーという事実も大きかったのだろう。
 翌日から毎日見るようになったその顔は、私を見つめながら、俺を殺したお前を許さない、と私に笑いかけるのだ。
 でも、それも今日までだ。本当に力のある人ならば私の嘘に気付くかもしれない、というかすかな不安があったから、選ぶのはいつもいかがわしい人になった。ただそういう人たちは本当に能力の無い人たちばかりだった。
 今回の先生こそ、私が三年間、探し求めていた最高の、
 二流の人。
 私の歓喜に水を差すように、電話の音が鳴った。知らない着信番号だった。
「はい、もしもし」
「先生は、一流ですよ」それはあの付き人の声だった。「あなたくらいの嘘は見抜けます。あなたの良心を試したくての、あの再確認だったのですが、残念ながらあなたは嘘を吐いた。本当に残念です。先生は最初、あなたに同情的だったんです。もともとは被害者でもあるのだから、真実さえ語ってくれたら、ちゃんと、除霊してあげよう、って。だけどあなたは先生の気持ちを踏み躙った――」
 付き人はまだ何かしゃべり続けているが、私はもう聞いていなかった。
『ちゃんと、除霊してあげよう』?
 気付けば、私は足元に目を向けていた。
 そこには前よりも明瞭に、そして大きくなったあいつの顔が、
 私の影を覆い尽くしていた。

(後書き)

 自分の中で勝手に〈先生と付き人〉三部作と位置付けているホラーの一作目になります。この三部作の中で一番ホラー色の強い作品が書けたかな、と思っています。怖がらせたい、という一心で書いているので、「面白かった」以上に、「怖かった」が嬉しい(笑)


「死を招く写真の話」

 寂れた商店街の一角にあるその建物には看板さえもなく、遠目からでは何の店か判断がつかない。あれはどのくらい前だったかもう思い出すこともできないが、昔、心霊とかオカルトに傾倒していた同級生の女の子が教えてくれたその場所は、今も変わらず、そこに残っていた。その女の子が死んだと知った時、私はすぐにその場所を思い出した。
『霊媒、除霊……etc 心霊相談、なんでも受け付けます』
 という貼り紙が入り口に貼り付けられている。私はポケットに入った写真がしっかりとあることを確認し、入り口に備え付けられた呼び鈴を鳴らす。
数秒も経たないうちに、入り口の扉が開き、ひとりの男が顔を出す。
「ご依頼者様、ですか?」
 声を聞いて、事前に連絡した際に対応してくれた方だと分かる。以前この相談所のチラシを見た時、物珍しくて取っておいたのだが、それのおかげで連絡は取るのは簡単だった。それが無ければ飛び込みで行くしかなかったことを考えると、とても運が良い……と思ったが、そもそもここへ行く時点で不幸なのだとすぐに思い直す。
 丁寧な口調だが、その低い声と風貌には威圧感がある。堅気の商売をしているような雰囲気がなく、怖い、と思った。
「はい……」
 という私の掠れた声は、驚くほどか細かった。
「……そうですか。では、こちらへ」と、歩き出した男の後を付いていく。私がこれから会うのは、女性のはずだが、怖い男の人たちに囲まれるのでは、と不安になる。
 もちろんそんなことはなく、
 案内された和室には女性がひとり座っていた。背すじを伸ばして正座するその女性の格好は、サングラスに派手な服装と、あまり場所に似合わない雰囲気だ。
 噂では聞いていたけれど……、私は失礼を承知で彼女をじっと見つめてしまった。同性の私でも息を呑むほど美しい。
「こんにちは。簡単な話は事前に、彼から聞いています」
「今日はありがとうございます。先生」
〈先生〉という言葉に思わず力が入る。本名どころかそのパーソナルに関するすべてがトップシークレットの霊媒師であり、多くの著名人がお忍びでここに通い詰めている、という。男は、その付き人らしい。
 私を見る先生の眉間にかすかにしわが寄る。サングラスの奥にあるその目は、私から何を感じ取っているのだろうか。
「ねぇ」と先生は隣で座る男に話しかける。「今日はちょっとふたりで話したいから、あなたは外してもらえる」
「分かりました」
 男は気分を害した様子もなく素早く立ち上がると、部屋から出て行った。
「つらい真実を色んな人に聞かれるのは嫌ですよね」先生の言葉の意味がよく分からず、戸惑ってしまう。私のそんな様子に気付いた先生は、「……ごめんなさい。よく怒られるんです。『お前は結論から話を始めないから、分かりにくい』って」と続ける。
「あの、つらい真実って」
「それはもちろん伝えますが、まずお話を聞かせてもらってもいいですか?」
「……はい」その前置きが気になってはいたが、教えてくれる様子も無いので、私は話を始めた。「この写真なんですけど……」
 ポケットから取り出した写真を机の上に置く。卒業旅行の際に撮った懐かしい写真だ。古びた写真には四人の女子高生が写っている。一番左端にいるのが私で、後の三人は当時仲の良かった同級生たちだ。
「呪われた写真と聞きましたが?」
「はい……何か感じますか?」という私の問いに、先生は何も答えてはくれなかった。仕方なく私はそのまま話を続ける。「私以外のこの三人、全員死んでいるんです。それも不審な死に方で……」
「不審、と言いますと?」
「全員、この写真を撮ってから十年後のある時期の間に、異様な死に方で死んでいるんです。最初に死んだのは、一番仲の良かった里香という子で、彼女は自宅で首を絞められて殺されていたんですが、犯人はいまだに見つかっていません……」
 私は新聞記事の切り抜きをカバンから取り出す。そこには二十代の女性の絞殺死体が発見された、ということが書かれてある。
「次は、優美という子で私たちの中で男性からの人気が一番高かった子です」と言いながら、今度は週刊誌の記事の切り抜きを差し出す。「モデルをしていた彼女は、マンションの屋上から転落死しました。自殺なのか事故なのかは分かりませんが、恋人がかなり問題のある人物で、その男が死に追いやったという憶測がこの記事には書かれています」
「ふむ」と先生が頷く。
「そして最後が早紀という子です。彼女は良くも悪くも喜怒哀楽が激しすぎる子でした」私は先ほどとは別の週刊誌の切り抜きを差し出す。「彼女は突然、行方不明になったんです。その一ヶ月後、山中で惨殺死体が見つかった。彼女は身体中を斬りつけられて殺されていたそうで、これも犯人は見つかっていません……」
「よく調べましたね」と先生は感心したように呟く。
 そう、調べた。ふと、何故だろう、と思った。どうして、わざわざ彼女たちを調べようと思ったのだろう。どうやって、こんな都合よく彼女たちの情報を集められたのか。その記憶もあいまいだ。
 誰かが教えてくれた? 違う。だってこの事件があった時に、私が誰かと会えるわけがないのだから……。どうして?
 まったく思い出せない。私の記憶にある私たちは、卒業後も交流があり、仲が良かったはずだ。なのに深い溝ができていたような気もする。私は忘れている。大切なことを忘れている。だけどそれがなんなのか分からない……。どうして?
 私は頭を振る。気にしてはいけない。今、一番大事なことは、そんなことではない。
「怖いんです。呪い、なんでしょうか?」
「呪い、ですね」先生が断言する。「それもかなり強い」
「やっぱりそれはこの写真が、呪いの写真……」私は思わず頭を抱える
「だったら次に死ぬのは、私! い、いやだ」
「呪いの写真?」ふふ、と先生が小さく笑う。それは優しくて、冷たい。「違います。呪いは、あなたです」
 私は、耳を塞ぎたくなった。それが真実だと私が一番知っている。
「もう、あなたは死んでいます。この中で誰よりも早く」

 そうだ思い出した……。卒業旅行が終わってからも、私たちの交流は続いていた。特に私はみんなから可愛がられていた……ううん。違う。本当は分かってた。私は三人ほど特別に秀でたものがなかったから、すこしだけみんなから見下されていて、だからこそ好かれていたんだ。でもそれでも良かった。私はみんなのこと好きだったし、みんなが私に嫌なことをしてくるわけじゃないから、ちょっとくらい馬鹿にされるのは我慢できた。
 卒業旅行から十年経って、私はみんなを京都に誘ったんだ。私が発起人になるなんてめずらしかった。私は浮かれていたのかもしれない。先日、婚約したばかりで、とても幸せな気分に満ちていたから、他人への思いやりをすこし無くしていたのかもしれない。京都に付いてきたくれたみんなに馬鹿みたいに自慢しちゃったんだ。相手がどういう時かも考えず……。
 私が幸せの絶頂にいたのとは反対に、彼女たちは全員、不幸のどん底にいて、苦しんでいた。なのに私はそんなことも知らずに浮かれて、彼女たちの神経を刺激するような言葉を投げ掛けていたみたいだ。
 よりにもよってこんな下に見てたやつに……。きっとそんな感情になったに違いない。
 その旅行の数日後、ふたたび私は彼女たちから旅行に誘われ、不思議に思いながらも了承した。そして夜中の山中に連れて行かれた私は彼女たちに気絶させられ、
 穴に生き埋めにされた。
 死にゆく中で、私はずっと彼女たちを呪っていた。なんでこんな目に遭わなければいけないのか。仮に私に落ち度がかすかにあったとしても、それは殺されるような落ち度では決してない。
 絶対に許さない。殺してやる。殺してやる。殺してやる。

「しかし自分が霊ということも自分が呪い殺したことも忘れながら、自分の昔の記憶ははっきりしているなんて……。そして標的を呪い殺した後は、母親に憑いて事件の情報収集をしていたわけですか?」
 先生と付き人の男のふたりだけとなった部屋で、男が小さく呟く。
「えぇ。まぁ本人は無自覚で行っていたみたいだけどね。すべてを忘れてしまったままのほうが幸せだったかもしれない」
「とはいえ、そうなると憑かれたままの母親が可哀想です」
「あら、あなたが他人に同情するなんて、めずらしい。好みのタイプだった」
「いえ、そういうわけでは……」
「嘘よ。でも、正気を取り戻した母親に『あなたの娘を除霊しましたから、あなたはここにいます』なんて言えないから、ごまかすのが大変だったわよ」
「全然ごまかせていませんでしたよ。強引な……」
「仕方ないでしょ」
「しかし本当にいつも思うのですが……」
「何よ」
「他者の悪意によって悪霊になった霊を退治するというのはなんとも――」
「本当にめずらしいわね。あなたがそんなに他人に同情的なんて。でも――」先生が語気を強める。「退治、ではないわ」
「そう、でしたね。すみません……」
「このままさらに憎しみを募らせないようにするために、彼女自身のためにも、浄化させてあげるの」
「先生こそ、めずらしいですね」
「何よ」
「霊に、そんな優しさを見せるなんて」

(後書き)

 根が単純なので、「ホラーと言えば、心霊写真でしょ」という気持ちで書いた作品です。キャラクターに肉付けをしようとしたことで、すこし恐怖が薄れてしまったかな、という思いもあります。〈先生と付き人〉三部作の二作目に当たります。


「或るホラー作家の死」

 ぼくはその人のことを〈先生〉としか知らない。
 ほおを撫でる先生のその手は温かく、胸の内に広がっていた恐怖が静まっていくのが分かった。
「すみません。急なわがままを言ってしまって……」
「気にされることはないです。わたくしとあなた、昔からの仲ではないですか? でもいきなりご連絡が来た時は驚きました」
 ぼくに霊が憑いているかどうか視てほしい。今まで何があっても、ぼくが彼女にそう頼むことはなかった。今日だけは特別だった。
「安心してください。あなたには何も憑いていませんよ」と優しく彼女が微笑む。十年来の付き合いになるが、夜中でもサングラスをかけている美しい彼女の素顔をいまだに知らない。その素顔を一度拝見してみたかったと思わないでもないけれど、それは叶わないだろう。「ですが……」
 その言葉の先は容易に想像がつく。〈先生〉は本物だ。ホラー作家を生業としながらも霊的な存在を否定し続けたぼくの凝り固まった思考を解きほぐした彼女の能力は、疑いようがない。だからこそ、これまでは絶対に霊視をしてもらいたくなかった。
 本名さえもトップシークレットの霊能力者を取材し続けることができたのは、ホラー作家として僥倖としか言えない。もしもこの出会いがなければぼくの作家人生はもっと早く幕を閉じていただろう。
 優れた霊能力者は、同時に預言者であり、超能力者である。ぼくは〈先生〉と出会ってそのことを知った。
「気になることがあれば、遠慮せず言ってください」ぼくは彼女に先を促す。
「不吉な予感がします。もしかしたら……、あなたは」と、先生が言い淀む。ぼくは、気にするな、というように首を横に振る。「死のうとしているのですね」
 ぼくの表情はきっと肯定しているのだろう。「ずっと前から決めていたんです」
「何故、というのは、愚問ですね」
「えぇ。先生が知っているように、ぼくは自殺に理由を求めるべきではない、という考えの人間なので、それがぼく自身であっても例外ではないと思っています」
「あなたらしいですね」先生が口角を上げて微笑むが、すこし哀しそうだ。「あなたとの付き合いも長かったので、すこし残念です。奥様はこのこと……?」
「知りませんよ。もちろん。実は妻のことをお願いしたくて」
「奥様のこと、ですか?」
「自惚れ、と思うかもしれませんが、妻にとってぼくは単なる夫以上の存在です。頼る人をぼく以外に持たない妻は、孤独な日々を生きていかなければならない。もしも妻がぼくの死後、苦しい想いをしていたなら手助けをお願いしたいのです」
「あなたも奥様も知らない仲ではありませんから、もちろん手伝えることであれば……、ただその未来を想像しながら、思い留まろうとはしないのですね」
「決めたことですから……十年間拒み続けた霊視をお願いすれば、あなたはぼくのところに最優先で来てくれる。そんな打算があったのは事実です。すみません。先生を騙すみたいなことをしてしまい……」
「大丈夫です。気付いていましたから。それにわたくしは、依頼主の心のケアがこの仕事でもっとも大事なこと、と考えています」
「さすが先生だ」
 その言葉が真実かどうかは分からない。それでも迷いなく放たれた言葉はぼくを安心させた。
「佐野さんも、ありがとうございます」
 先生の隣で黙ったままの男のほうに、ぼくは顔を向ける。寡黙で、堅気の人間に思えないような雰囲気だが、実はお人好しな部分があることをぼくは知っている。彼とも十年来の付き合いだが、名前を知ったのはごく最近のことだった。
「いえ……、残念です」
 ぼくはふたりに向けて、「妻をお願いします」と頭を下げた。

 ひとりのホラー作家が自殺したという出来事は、地元の新聞の片隅に載ったくらいで、ほとんど話題にさえならなかった。
 公募の新人賞を受賞したデビュー作こそ大手の出版社から刊行されたものの、大きく売れることはなく内容が高く評価されることもなかった。連続怪死事件の謎を追う女性ジャーナリストが、恐怖に見舞われる、という内容で、佐野は以前、作者本人からこの小説にはモデルがいると聞かされた覚えがあった。
 十年来の付き合いだったあのホラー作家が死んでから、もう一ヶ月近く経つ。
「先生。奥様は元気でしょうかね」
「さぁ、ね」と、先生はいつもの本気か冗談か分からないような口調で言う。
「すぐに連絡が来る、と思っていたのですが……」
 もともとはホラー作家本人ではなく、その妻、深雪が依頼主だった。生まれつき霊に――良いものも悪いものも含め――憑かれやすかった彼女が、『何かに苦しめられている』と先生を頼ったのがきっかけだった。当時、霊能力に懐疑的だったホラー作家の姿も、今では良い思い出だ。
 深雪は幼い頃に両親を喪っていて、親戚付き合いもなく、夫のみを頼りにしていたはずだ。そんな中で定期的に会っていた先生にすぐ連絡が来るのでは、と佐野は考えていたのだが、連絡が来ることはなかった。一ヶ月経ち、もしかしたら後追い自殺したのでは、という不安を先生に告げると、「じゃあ、会いに行ってみる」と言われ、ふたりは作家夫妻が住んでいた場所を目指していた。
「便りが無いのは元気な証拠、とも言うでしょ。それに電話したら出てくれたんだし、きっと元気よ」
 先生のその言葉に、佐野はほっとする。たとえば死の報せのような、先生の不吉な予感はよく当たる……というより、外れることがない。とはいえ、そういう予感を抱いても、先生がそのことを言わないことも多いので、その言葉だけを鵜呑みにすることはできないのだが……。それでも先生にとっても、彼女は大切な存在のはずだから、もしも不吉な予感を覚えているなら、険しい顔を浮かべていてもおかしくない。すくなくとも佐野の見る限り、そんな素振りはひとつもない。
「でもめずらしいですよね」
「何が?」
「先生が、損得勘定無しで行動するのって、深雪さんくらいじゃないですか?」
「……似てるのよね」
「似てる?」
「昔、死んだ妹に。その罪滅ぼし」
「妹がいたんですね」佐野は知らなかった事実に驚く。「……でも、罪滅ぼしって、どういうことですか?」
「言わない」それ以上は絶対に言わない、という口調だった。
 そんな会話をしている内に、ふたりは深雪の自宅へと着く。出迎えた深雪の表情は、意外にも朗らかで安心する。
「お待ちしてました」
「こんにちは。深雪さん。急にごめんなさい」
「いえいえ。葬式だ、なんだ、で忙しかったんですけど、もうだいぶ落ち着きましたので、全然お気になさらず。でもびっくりしました、いつも連絡するのはこちらからだったので、まさかお電話を頂けるなんて……」
 いつもより言葉は早口で、想像以上の声の大きさに、佐野の安心は不安に変わった。深雪は今、精神的に不安定なのかもしれない、と。
 ちらり、と先生の表情を伺うが、その表情に変化はなかった。
 部屋に入ると、抹香の独特なにおいがした。あの人が死んだ、という事実を改めて実感しながら、
「このたびは、ご愁傷さまです」と佐野が告げると、「いえいえ」と深雪が手を振る。
「主人は、私の心の中で生きているんです」切ない比喩表現だ、という佐野の思いを読んだかのように、
「そうじゃないんです」と深雪が言った。「本当に分かったんです。主人が私の心の中で生きている、って」
 佐野が何も言えずにいると、先生が机の上にある新聞に目を向けているのが分かった。
「深雪さん」静かだが、すこし強めの口調で先生が言った。「この新聞って、日付がすこし前ですが……」
「あぁ。ちょっと気になる記事があって、取っておいたんです」
「気になる記事、というのは?」
「好きな本の書評が載っていたんです」
 嘘だということくらいは、佐野にも分かった。それが分からないほど短い付き合いではない。先生も同じように考えているはずだ。
「ふぅん。なるほど……」
「それが、どうかしましたか?」
「いえ、わたくしもすこし気になる記事がありまして……」
「気になる記事ですか?」深雪の表情がかすかに身構えるようなものに変わる。「何が、そんなに気になるんです?」
「山中にのどを切られた変死体を発見」
 深雪の目つきが鋭くなるのが分かった。先生がそれ以上言葉を続けようとしないのが分かると、表情をやわらげ、
「怖い事件が最近多いですからねぇ」
 それから会話は当たり障りの無いものに変わり、それから先生が新聞の件に触れることはなかった。
 帰りの車中、先生は一言もしゃべらず、ずっと下を向いていた。佐野は深雪と先生のふたりの心の内が分からず、困惑していた。

 そのホラー作家はデビュー作の後は、地方の小さな出版社が発行している雑誌にいくつかの短編が掲載されたのみで、商業作家として陽の目を見ることはなかった。その後も死ぬ寸前まで自身のブログでホラー小説を書き綴っていたので、最後までホラー作家であり続けようとしたことは間違いない。
そんな作家の作品が、死後、突如として脚光を浴びるなど誰が想像できただろうか?
「半年前、深雪さんに会った時点で、もう気付いていたんですね」
 ホラー作家のデビュー作で描かれた連続怪死事件と同様の連続怪死事件が、作家とその妻が住む周辺地域で起こった。その関連性に気付いたマスメディアの報道やSNSでの賑わいによって、作家の作品は世間の関心を集めた。
「うん。哀しいけれど、気付いてた。こうなることも予感してた」
 犯人はいまだに捕まっていない。
 しかし犯人を、佐野と先生は知っている。
「なんで、こんな馬鹿なことを」
「あの人のため……だったんでしょうね。深雪さんにとって、あの人がすべてだった」あの人、という時、先生は大切なひとを想うように口調に力をこめる。「だけど大切なあの人を世間は認めてくれなかった。だから、あの人は死を選んだ。きっと深雪さんは、あの人の死、を世間に求めようとしたのかもしれない。あの人の言葉じゃないけれど、自殺に理由を求めるなんて本当に馬鹿馬鹿しいことだと思う。だけど残された人にとっては、自分を納得させるために、理由が必要になるんだろうね」
 デビュー作だけではなく、雑誌に載った作品やブログに掲載した作品も書籍化され、事件と相まって、彼は死後、時の人となった。
「あの人が、こんなことを一番嫌う人だって、深雪さんが一番知っているはずなのに……」
「でも、こうしないと気持ちが保てなかったんじゃない」
「彼女は、行方不明のままなんですよね。まだ続くんでしょうか?」
「作品通りなら、まだ死者は出るはずよ」
「なんで、気付いた段階で止めなかったんですか?」
「警察じゃないんだから、その義務はない」と彼女は寂し気に言った。「ううん。本当は違う。昔、死に追いやった妹に、似ていたから。あの表情を見ていたら、何も言えなくなった」
「その死について詳しくは聞きません。多分、教えてくれないでしょうし……。でも、罪を重ねることがより彼女を苦しめるとは思わなかったんですか?」
「救われる、と思った。だって事実、あの人は世間に認知され始めている。彼女が救われるのなら、知らない他人が何人か死んだって構わない……と思ったわ、あの時、間違いなく、そう思った。だって……あなたはそう思わなかった? あなたもすこしは感付いていたはずでしょ。なのに、そんなこと言うの、ずるい。だって身を潜めるようにして生きてきた私たちにとっても、あの人たちは特別な存在じゃない!」
「すみません……。確かに感付いてはいました。確かにふたりは特別な人たちです――」
「ううん。ごめんなさい。私も気が立ってた。……別に善人を気取るつもりはないわ。彼女が救われるのなら、知らない他人が何人死んだって構わない、と今でも思っている。……でもずっと声が聞こえてるの。助けて、助けて……って、苦しんでる声が。もう誰にもどうすることもできないくらいに、苦しんでる」すこしだけ時間を置いて、だから、と続ける。「楽にしてあげないとね」

 数日後、ホラー作家の妻の変死体が自宅で発見された。その途端、怪死事件は止み、行方不明の末、死体として発見された深雪が犯人として疑われることもあったが、その真相が本人の口から語られることはもうない。
 怪死事件の連鎖が止まると、時の人となった作家の名は急速に色褪せていった。

(後書き)

〈先生と付き人〉三部作の最後の作品になります。最初は恐怖をもっと前面に押し出した作品を考えていましたが、登場人物のことをもっと書きたくなったせいで、意外と恐怖が薄めの作品になってしまいました。


「恐怖の終わり、あるいは始まり」

 他者への配慮というものをどこかに置き忘れてきた上司に膨大な仕事を押し付けられたことで、いらいらが募っていたのかもしれない。言い訳のつもりはないが、普段の俺だったら決してこんな軽率な行動は取らなかったはずだ。
 残業を終えて、終電になんとか間に合った俺は入り口付近の座席に腰掛け、ぼんやりと暗くなった窓越しの風景を眺めていた。小さくため息を吐いて、また明日も早朝からの出勤か、と思うと、うんざりとした気持ちになる。すこし寝ようかなと目を瞑って数十秒ほど経ったくらいだろうか、くちゃくちゃ、という不快な音とともに目を開けると、俺の前に巨躯の持ち主と言っていいような大男が立っている。吊り革にも掴まらず、俺の至近距離で睨みつけるように見下ろす男に、俺は恐怖より前に怒りがわいた。
 なんだよ、こいつ……。辺りを見回せば、席はいくらでも空いていて、わざわざ俺の近くに来る必要なんてないし、ガムを噛みながら睨みつけられるその態度の悪さとそんな態度を取られる覚えもないことに腹が立つ。
 とはいえ自他ともに認めるへたれでトラブル嫌いの俺にとって、こういうトラブルは何よりも避けたいものだった。何度も言うが、普段の俺だったら絶対にこんな軽率な行動は取らなかったと思うし、こんな不気味な奴と関わってたまるか、と軽く会釈して場所を移動していたはずだ。
 自分でもなんでそんなことを言ってしまったのか分からないが、思わず舌打ちして、「どっか行けよ、デブ」と相手にしか聞こえないくらいの声で呟き、後は無視するようにふたたび目を瞑った。
 くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、とガムの咀嚼音のテンポが速くなる。目を瞑りながら、俺はさっきの行動を後悔する。くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。
 やめろ、やめてくれ。俺が何をした……いや、したんだが、もとはと言えばそっちが先だろ。
 手を出してくる様子はない。電車に乗っている間の我慢だ。どうせ次の駅で降りるわけだから、それまで我慢するしかない。
 電車が俺の降りる駅に着き、俺は席をすぐに立つと、相手の顔を見ずにその場から足早に立ち去る。くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。耳障りな音が脳裏に貼り付いて、離れない。逃げるように駅から離れ、家路へと向かう道で俺は立ち止まり、深い息を吐く。心臓が激しく鼓動している。とりあえずこれだけ移動すれば、もう安心だろう。俺が自分の軽率な行為を反省して、ふたたび歩き始めようとすると、
 くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。
 と、追い掛けてくるかのように、あの音がふたたび聞こえてくる。
 幻聴だ。幻聴に決まってる。徐々に近付いてくる音が幻聴ではない、と俺自身が誰よりも分かっていた。
 恐る恐る振り返ると、真後ろにあの男が立っている。俺は半泣きになっていたと思う。大の大人がと笑われるかもしれないが、街灯に照らされた男の表情は喜怒哀楽では判断できないものだった。大男は俺に何かするわけではなく、もう味が無くなっているであろうガムを噛み続けるだけ。
 何もしてこないのが、何よりも不気味だ。いっそ一発殴られたほうが、ましだ。
 くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。
 俺は悲鳴とともに走り、とにかく自宅を目指した。最短ルートを選べば男に家の場所がばれてしまう、と俺はわざと普段の道とは別の道を通ったりしながら、いつもよりかなり時間を掛けて家に辿り着く。
 一人暮らしの自宅がこんなにも不安だ、と感じたのは、人生で初めてだ。
ピンポン。ピンポン。呼び出し音が聞こえ、マンションの自室の中からオートロック前の映像を見ると、あの男の顔が映像一杯に映る。ピンポン。ピンポン。ピンポン。ピンポン。
 くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。という音はもう聞こえないはずなのに、耳に纏わりついてしまったせいか、ずっと鳴り響く。警察を呼ぶか……だけど何かをされたわけでもなく、自宅がばれている以上、さらに怒りを買う事態は避けたい。どうしよう、どうしよう……、と俺の焦りを逸らすようにスマホの着信音が聞こえる。この場に似合わない愉快な音ととも表示された名前は、俺に仕事を押し付けた上司だった。焦りと不安が怒りに変わり、俺はその電話に出ると、その上司の声を聞くよりも前に「お前のせいだ!」と声を張り上げ、思い付く限りのあらゆる罵詈雑言を相手に浴びせ、相手の声を聞く前にその電話を切り、電源もオフにする。明日の仕事なんて知るか。今は命さえ危ない状況なんだ。
 もう一度、映像に目を向けると、オートロック玄関の前に人の群れが出来ている。警察の姿も見え、どういう経緯かは分からないが、とりあえずほっとする。その後、俺は警察の人と話すことになり、これまでの経緯を説明する。軽率な行動は注意されたが、俺のことをかなり気遣ってくれる優しい人だった。その人の話によると、別の部屋の住人がマンションから出ようとした時にあの男を見つけ、不審な男がいると連絡してくれたらしい。警察が今後何かあったらすぐに連絡をください、とその場を去ってすこし経つと、さっきの上司とのやりとりが気になってくる。今日は行動が本当に軽率すぎる。まぁでも、とりあえず、いま一番の危機は乗り越えた。あの脳裏に貼り付いた音も離れつつある。
 恐る恐るスマホの電源を入れると、異常な数の着信履歴。それはすべて上司の名前だった。
 とにかく謝ろうと、上司に電話を掛けると、電話越しから聞こえてきたのは、
 くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ、くちゃくちゃ。
 それは、ひとつの恐怖が終わり、新たな恐怖が始まる瞬間だった。

(後書き)

 追い掛けられ系不条理ホラーと呼べばいいのでしょうか。初期の頃に書いた怖がらせることのみを目的にした作品で、思い入れの強い作品ではあるのですが、もっと長く書けば良かった、と思っている作品。復帰した時には、ぜひ挑戦してみたいと思っています。