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ショートショートに花束を 4巻

〈前書き〉

 ※前書きは1巻2巻3巻と同じ内容になります(太字部分以外)。

 いつもお世話になっております。今はお休み(追記 復帰しました)しているのですが、以前、ショートショートや掌編小説を書いていたサトウ・レンと申します。今は溜まった創作物をマガジンに雑に放り込んであり、お世辞にも省みられる状態になっているとは言い難いのが実情です。読み返してみると、拙いところばかりが目に付き、恥ずかしくもありますが、これから誰の目にも触れられず朽ちていく姿を眺めているのも寂しい……、

 ということで今まで創ったものの中からいくつかピックアップして、簡易のショートショート集を作ってみました。タイトルは阿刀田高『ショートショートの花束』にちなんで、「ショートショートに花束を」。好きなところから読めるように目次も付けました。一部すこし訂正を加えたのと、それぞれ最後に簡単な後書きを付けているのが、前回からの変更点となります。

 ここまでお付き合いいただきありがとうございました! 今回で「ショートショートに花束を」は最後になります。創作数で言えば、もう一個くらい編めそうな気もしますが、まぁ無理やり編むものでもないでしょうし。最終巻は落ち穂拾いのようなもので、分量的には短編に当たるものの中で一番短いものや本来物語化する予定の無かったものまであります。

 雑多な印象を覚えるかもしれませんが、楽しんでいただければ幸いです!


「空を飛びたかった頃」

 足が竦む。青年は思わず逃げ出したくなるような恐怖を押し殺し、断崖のふちに立つ。深呼吸をしてみても激しい動悸が収まる気配はない。その青年の涙を見ても笑う者は誰もいない。周囲の人間たちは表情も変えずに、じっと彼を見ている。

 まだ少年だった頃、彼は鳥が好きだった。快晴の美しい空を自由に飛び回る鳥の群れ。その光景が目に入るたびに少年は、あんな自由な鳥たちになりたいと願っていた。厳格な両親のもとで育った少年にはそんな自由が無く、つらい日々を送る少年には憧れの的だった。
 彼は勉強が好きではなかったが、それでもそれなりの点数は取ることのできる少年だった。両親はそんな彼に見合うレールを敷き、その整備された道を進むように強いられた。そのせいか、高校の途中くらいまでは、その道を逸れたい、と考えることさえなかった。楽しくはなかったが、それが当然だと思っていた。
 その頃には鳥に憧れていた気持ちは薄れ、しかしながら大空を羽ばたく夢は潰えてはいなかった。
 パイロットになりたい。高校卒業を前にして、そんな想いを抱くようになった。
 明確なキャリアプランなど、なかった。漠然とした想いだけを両親に告げることは当時の彼にとって簡単な行動ではなく、漠然とした想いを漠然と諦め、ただ流されるように彼はそれなりに有名な大学に入った。もしかしたら勝手に思い悩んでいただけで、意思を伝えれば、両親は決して反対しなかったのではないか、と今ではそんな風に思う。
 将来の職場は航空会社を選ぼう。そうすればパイロットという夢もまた拓けるはずだ。まだ未来は輝いている。あの日までは疑うこともなく信じていた。
「もう、その右眼に何かが映ることはありません」
 サークルの飲み会で訪れた居酒屋で彼は片目の視力を失った。隣の騒いでいたグループが彼の友人である女性に絡んだのを注意したことで、喧嘩になり、その時に振られた暴力がきっかけだった。
 片目が何も見えなくなったと同時に、彼は夢を見ることをやめた。片目も夢も、最初から俺は何も見ていなかったのだ、と。
 大学は中退し、自分を支えてくれようとした家族は遠ざけた。恋人とも別れようとしたが、彼女がそれを拒んだ。「私が永遠にあなたを支える」その言葉が欺瞞に満ちていることに彼は気付いていた。彼女が、「あなたを支える」自分に酔っていることに彼は気付いていたからだ。それでも最初は信じようとしたが、結局、彼女は彼のもとから去っていった。
 自堕落な生活とともにギャンブルにのめりこんでいったのは、自然な流れだったのかもしれない。世間に唾を吐き、小さな犯罪を重ねながら、ギャンブルに明け暮れる日々。そんな彼を愛してくれる人は誰もいなかった。彼は孤独で、しかしつらいとさえ思わなかった。誰も彼を愛さないのと同様に、彼も誰も愛せなくなっていた。それは人だけではなく、あんなにも憧れた快晴の青空さえも、もう憎しみの対象でしかなかった。
 その頃になると彼は下ばかり見るようになっていた。実際に地面を見ながら歩いていたし、自分より堕ちた人間ばかり見て優越に浸っていた。
「いつも暗い顔していますね」
 失礼な言葉を投げかけてきたのは、行きつけの居酒屋で隣に座っていた青年だった。青年は穏やかな表情を浮かべているが、翳りのある表情のせいか好青年という雰囲気がない。
「金が、無いからな」
「良い儲け話がありますよ。私も実は相棒を探していて」
 薄く気味の悪い笑みを浮かべる青年の表情は、到底、信用できるものではなかった。それでも彼は……、
 彼は、青年の犯罪の片棒を担いだ。詐欺師になったのだ。
 最初はうまくいっていた。今までの生活からは考えられないような豪華な生活を送るようになった。途中からおかしいと気付いたが、その時にはもう遅かった。
 彼も、欺かれていたのだ。

 周囲には明らかに堅気の人間とは思えない男たちがいて、その中心には相棒だったはずの青年がいる。
「ほら、早く飛べよ」
 彼は、空を飛びたかった。ある意味では、最後に夢が叶った、と言えるのかもしれない。
 断崖のふちからまっすぐ、漆黒の空を見つめる。
 もう快晴の美しい空を見ることも許されない彼は、静かに空を飛んだ。

(後書き)

「短い!」という思う向きもいるかもしれませんが、ショートショートの理想的な長さはこのくらいだと個人的には思っているところがあります。基本的に人を驚かせることが大好きな私は、こういうタイプの作品を書くのが何よりも好きみたいです。


「佐藤詩織は、図書室で」

 佐藤詩織はかなり多いらしい。これは私の名前の話だ。私の周りには意外とすくないが、小説の登場人物の名前として登場することが多いらしい、と十六年間そんなこと知らずに生きてきた私にそのことを気付かせてくれたのは、同級生の美穂ちゃんだ。一言で言い表すなら、美穂ちゃんはヒロインタイプで、私は脇役タイプだった(断言できる!)が、「詩織ちゃんをヒロインにするような漫画が、本当に良い漫画なんだよ」と美穂ちゃんは悪びれることもなく言う。他の人が言えば嫌味だと思うが、悪意なく言うから性質が悪く、怒っても響かないだろうから、怒る気にもなれない。
 仲が悪いか、というと、そういうわけでもなく、いつも一緒に行動していて仲は良い。すくなくとも私はそう思っている。鈍感で人を傷付ける言葉を平気で言ったりもするけど、何故か嫌いになれない魅力が美穂ちゃんにはあった。そういうところがヒロインたる所以なのだろう。
 だから今回の出来事の当事者は、美穂ちゃんのほうが絵になったはずだ。いやもちろん美穂ちゃんが被害者になって欲しいというわけではないのだけれど……。私には似合わない。
「ねぇねぇ詩織ちゃん。あれ、また書かないの」美穂ちゃんが私の手元にあるダイアリーに目を向けて、言った。
「書いてないよ。ってか、もう書かない!」
「えぇ残念……」
 私の前でのほほんとした笑顔を浮かべる美穂ちゃんはやはり私にはない魅力を持っていて、友達だとは思うけど、やっぱりすこし妬ましい。私だって十六歳の女子高生なんだ。周りから魅力的に思われたい。
〈あれ〉と美穂ちゃんが言うのは、私の黒歴史とも言えるポエムだった。私は隠れて日記を付けていてそれを誰にも見せずに携帯していた。もしかしたら見られる可能性もあるからと直接的な表現の悪口は避けていた。そもそも携帯しなければいい話なのだが、誰も知らない秘密を持ち歩いているということに密かな悦びを感じていた。ただ一度だけ他人に見られたことがあって、その見た相手が美穂ちゃんだった。
 しかも読んでいたページが片想いを綴ったポエムだったなんて! 妬ましいほど美しく、それでも好きな女の子。
「良い詩……」と何故か感動している様子に、私は困り果ててしまった。
 その片想いの相手って、美穂ちゃん、あなたなんだけど……。とりあえずその時は、美穂ちゃんからダイアリーを奪い取って、叱っておいた。「勝手に見ないで!」って。
「なんで、あんな下手くそな詩を読みたいって思うの?」
「だって……」
「というか、『気になることがある』って、こんなところまで呼び出しておいて……そんな話をしたかったの?」
「ごめんごめん。詩織ちゃんに会ったら、和んじゃった……」
 今は放課後の図書室で、司書の先生以外は私たちしかいない。帰宅部の美穂ちゃんはよく放課後の図書室で本を読んでいる。初めて美穂ちゃんを見たのもこの図書室だった。その時はまだ美穂ちゃんの名前も知らなくて、偶然見掛けた、ツルゲーネフの『はつ恋』を読み耽る文学少女然とした美しい少女に見惚れてしまった。小学校時代から周りと比べて、恋、というものに興味を持てなかった私の、それが初恋だった。
「実は、ね。これ見て欲しいの」
 そう言って美穂ちゃんが取り出したのは、いくつかの小説だった。どれも現代が舞台の作品だった。
「美穂ちゃんの好きな本?」
「まぁそういう本もあるけど……大事なのは、そういうことじゃなくて。登場人物表なの」
 本を開くと、その本の一部が切り取られていた。誰かの名前が切り取られている。「これ学校の本だよね」
「もちろん私物じゃないよ。名前が切り取られているの。どの本も。登場人物表だけじゃなくて、本文も名前の場所が全部切り取られているの。私が持ってきたこの本たち、全部」
「その名前って?」
 嫌な予感に不安を覚えながら、私は美穂ちゃんに聞く。
「うん。『佐藤詩織』。私も不安になって……。ストーカーとかそういう嫌な目に遭ったりしてない?」
 私は首を横に振りながら、その切り取られ不完全となった本たちに目を向けた。
 その日、私は大切なダイアリーを無くした。盗まれたのではない、と自分に言い聞かせながらも本心では、その出来事と本の一件を結び付けて考えていた。
「落ちてたよ」と、美穂ちゃんが届けてくれたのは、それから三日後のことだった。

 夜、自分の部屋に入った私はダイアリーを机の上に置く。三日間触ることのなかったダイアリーを開こうとした時、小さな緊張感に包まれた。何故かは自分でも分からない。誰かに見られたかもしれない、という不快感はかすかにあったが、それ以上にほっとしていた。本の一件とは関係無さそうなことと発見したのが美穂ちゃんだったことに。美穂ちゃんにも見られたくはないけれど、まぁ一度見られてるし……。
 1ページ目を開くと、そこには美穂ちゃんに見られたポエムがある。そこに自分の筆跡ではない文字が書かれている。
『ありがとう』
 この字、見たことある……。
 ふと三日前の会話に違和感を覚えた。
 なんで美穂ちゃん、全部切り取られていた名前の正体が『佐藤詩織』だって知ってたのかな? たまたま知ってた? 自分の持っていた本と見比べた? なんか腑に落ちない感じがする……。
 四日前に私が綴った最後のページを開くと、その末尾に『ありがとう』と同じ筆跡の文字があった。
『次のページ』
 開くとそこには、色んな字体の同じ文字が切り貼りされていた。

 佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織佐藤詩織、愛してる。M。

 私はダイアリーを閉じ、ぎゅっとそのダイアリーを抱きしめた。その感情の正体は誰にも言わないし言えない、私だけの秘密の。

(後書き)

 語り手の心情を、それが〈恐怖〉なのか〈嬉しさ〉なのか、読み手に委ねたかった。人によってはホラーだし、恋愛小説にもなりえるそんな作品を目指したものの、これは短すぎたかな、と反省もしている。


「悪魔」

 悪魔。
 祖父がそう呼ばれている、と少年が知ったのは、つい最近のことだった。学校からの帰り道。謎の男からの「きみのお祖父さんは悪魔だ!」という憎しみを隠そうともしない言葉は少年の脳裡に貼り付くように残った。
 悪魔。悪魔。悪魔……。悪魔を比喩表現とも捉えられないくらい幼かった少年は、悪魔と聞いても翼を付けた化物しか頭に浮かばず、大好きな祖父を悪魔とイコールで結ぶことができなかった。
 お母さんに聞こうかな、とも思ったが、なんとなく怒られそうな気がして聞くことができないまま、数日経ったある日、また謎の男が少年の前に現れる。「きみのお祖父さんは、××という家の母娘を殺した最低な男なんだ」と強く投げつけるような口調だった。「なんで、そんなこと――!」大好きな祖父のことを悪く言う謎の男が嫌で、少年は走って逃げた。大人の足なら簡単に追い付くはずだが、捕まることはなかった。気になって後ろを振り向くと追い掛けてきている気配はなかった。
 少年の暗い表情に気付いた母親に「どうしたの? 何かあった?」と聞かれたけれど、少年は「ううん」と首を横に振った。けれど「教えなさい」と優しいけれど頑として引かないその口調には抗えず、謎の男のことについて話すと、母親の表情が徐々に哀しみと怒りの色を帯びていく。
「次、その人と会って何か言われても、絶対に信じちゃだめよ。それは嘘だから」
 嘘だから、と告げるその表情から少年は謎の男の言葉は真実なのだと悟った。子どもは大人よりも、ずっと大人の表情を観察している。そのことを大人は大人になると忘れてしまうのだろうか。嘘つき、と思いながら、少年は必死な母親を見ていた。
「おれは、理由あってこの事件を追っているんだ」
 数日後に謎の男と会った時、少年は逃げずに男の話を聞くことにした。男が驚いていたのは最初だけで、少年から興味を持ってくれるならちょうどいい、と思ったのだろう、すぐに男は話を始める。
 男はスマホを取り出すと少年にその画面を見せ、「この事件は知ってるか?」と聞く。〈母娘殺害〉という大きな見出しが載った新聞記事の画像だった。「十二年前に、この辺りで起こった事件だ」
 少年が生まれるよりすこし前に起こった事件だった。首を傾げる少年に、
「おれはフリーのジャーナリストをしていて、ずっとこの事件を追っているんだ」この言葉は真実だろうか。少年が判断に迷っていると、さらに男は「犯人はまだ見つかっていないが、きみのお祖父さんが一番怪しい、と言われている。……すくなくともおれは犯人だと思っている」と続ける。
 少年が理解しているかどうかも気にしようとせずに、言葉を畳みかけてくる男の表情は常軌を逸していて怖い。
「ぼくは、知りません!」
「あぁ、確かにきみは関係ない。関係ないが、きみは知りたくないか。自分のお祖父さんの正体が? もし本当に殺人犯だったとしたら、正しい道を進ませてあげるのが優しさじゃないか。悪い人は警察に捕まらないと」男は、まるでそこに少年がいないかのような話し方をする。「だって、あの男は、犯罪者なんだよ!」という自分の強い口調で、はっと我に返ったように、「すまない。ちょっと興奮してしまった」と言った。
 少年は恐怖が入り混じった表情で、首を横に振る。やっぱり話さずに逃げればよかった。
「実はきみのお祖母さんと会う約束をしているんだ。ずっと根気強くアプローチしていたかいがあったよ。どうしても話したいことがある、って言ってくれた」
 その目にかすかに殺意が宿るのを少年は見逃さなかった。
 それからさらに数日後、ふたたび男は少年の前に現れた。そして少年の耳もとに口を寄せると――。

 少年の祖父は一代でその莫大な財を築いた有名企業の現会長であり、周囲に敵は多かったが、家族、そして孫である少年への溺愛ぶりはそんなことを微塵も感じさせなかった。仕事の上での祖父について当然何も知らない少年は、祖父に対して〈孫に甘い好々爺〉くらいの印象しかない。
 どちらかと言えば、祖母のほうが厳しく苦手な印象がある。
 少年は祖父が住む大邸宅の前でちいさく息を呑む。ひとりで祖父の自宅に来るのは初めてだった。少年が住む一軒家の三倍くらいの敷地面積を持つその邸宅に祖父母は暮らしていて、いつ見てもその広大さに圧倒される。
「あら、もしかして、お孫さん」
 声のほうに顔を向けると、白い服を着た女性が立っていた。自分のことをお手伝いさんだと名乗ったその女性は母よりすこし若いだろう見た目で、ふくよかな身体つきが印象的だった。近所に住む女性がお小遣いを貰って簡単な家事手伝いをしている、というのが実情のようだ。
「うん」
「お祖父ちゃんかお祖母ちゃんに、何かご用事」
「うん」
「じゃあ今から一緒に行こうか?」
 邸宅の玄関でふたりを迎えてくれたのは祖父だった。いつもなら祖母が出迎えることが多いのに……。とは言ってもそういう日もあるだろう。ただ何故か少年はかすかな違和感を覚えた。
「こんにちはー」と、バイト――お手伝い、という言い方は嫌いだから、バイトにして、とのことだった――の女性が祖父に言うと、「ふん、祖母さんならおらんぞ」と冷たい声で言った後、少年に気付き、慌てて「あ、あっ、お、お前もおったのか」
「ええ、先ほど家の前で会いました」
 急な来訪に驚いていた祖父だったが、ひとりで遊びに来たことを告げると、「ほうほう。こんな遠くまで」と目を細めた。
「お祖母さんはどこに行かれたんですか?」バイトの女性が聞くと、優しく目を細めていた祖父の目がすこし冷たくなる。「それが分からんのだ。何日か前から姿が見えんのだ」
「ええ! 大丈夫なんですか?」
「旅行に行ってきますなんて書き置きがあったから、誰かと旅行にでも行ったんじゃないか?」
 その言葉を聞きながら少年は、殺意を宿したあの男の瞳を思い出す。
「ずいぶん落ち着いてますね……」女性が呆れたようにつぶやく。「心配じゃないんですか?」
「心配したからって、戻ってくるもんでもないからな。その内ひょっこり、と戻ってくるだろ」
「冷たいね」
 と少年はぼそりとつぶやいたが、祖父の耳には届かなかったようだ。

 台所にはカップラーメンの空容器が積み上げられていた。祖母がいなければ家事などほとんどできないのだろう。バイトの女性はその空容器をゴミ袋に入れていき、特に汚れていた台所と居間を簡単に掃除し、すぐに邸宅から出て行ってしまった。祖母がいない時は出来ればここにいたくないのだ、と愚痴のように少年につぶやいていた。彼女は、祖父との折り合いがあまり良くないのだろう。
『きみのお祖母さんが消えた。おれと会った翌日から一切、姿が見えないらしい』
 少年は、あの男の言葉を思い出す。祖父とふたりきりになることを怖い、と思うのは、生まれて初めてだった。
『おれは、きみのお祖父さんが殺したと思っている。……信じられないよな。そうだよな。その通りだ。だけどきみのお祖母さんは認めたよ。きみのお祖父さんは人を殺したことがある、と』
 少年を見ながら、にこにことしている祖父の姿から殺人鬼の一面を想像することはできない。
『もちろんそれは、お――いや、その母娘殺害の犯人が、きみの祖父だ、と認めたわけじゃない。というよりその犯人が誰なのか、きみのお祖母さんは本当に知らないんだろう。認めたのは、別件での殺人だ』
「どうしたんだ……」
 本当に祖父は殺人鬼なのだろうか?
「庭に行こうよ。お祖父ちゃん」
「庭、どうして?」
「ここの庭、広くて綺麗だから。見たくなるんだ」
「ほうほう」祖父はほほ笑んで、「お前も風情というものが分かるようになってきたのか?」と言った。
「あ、う、うん」
 口渇感を覚えるほど緊張しながら少年は、祖父とともに庭へと向かった。
 毎朝、庭師が訪れて剪定などの手入れを施すその美しさは一般家庭では中々見られないようなものだった。今日はたまたま休暇を取っていたらしく、その庭には誰もいなかった。
「ね、ねぇ。お祖父ちゃん――」と声を掛けようとした時、突然、木々の裏側から鳥が現れ、そのまま飛び立っていった。名前は分からないが、少年に不安を与えるような黒い鳥だった。その光景に少年はしばし躊躇するが、決心して「ちょっとトイレに行ってくるから、ここで待ってて」と伝えた。
 少年は急ぎ足で屋内へと入ると、ポケットに入れた鍵がしっかりとあることを手探りで確認する。

『これはきみのお祖母さんと会った時に頂いた鍵だ。お祖母さんは決してお祖父さんから殺人の告白を聞いたわけではなくて、実際に死体を発見したらしいんだ。あのお屋敷のような邸宅の地下にお祖父さんが隠し持っている鍵でしか開かない扉があり、お祖母さんはその鍵を偶然手に入れたそうで、好奇心を抑えられずに扉を開けたところ白骨死体が……ってわけだ。警察に告げるという判断がとっさにできず、事件を追っているおれに相談を持ち掛けてきた。その時に預かったのが、これだ。なんとかそこに侵入できないか?』
 好奇心。正義感。そのどちらでも無く、ただ状況をしっかりと把握できずに流されるままの行動だった。少年はトイレにはいかず地下にある目的の部屋を目指した。それは鉄製の扉ですぐに見つかった。
 少年は鍵を取り出し、鍵穴に差し込もうとするがうまく入らない。手が震えていたので、緊張のせいか、とも思ったが、
 そうではなかった。
 開かない。
 え、なんで。がちゃ、がちゃがちゃ。がちゃがちゃがちゃ。鍵穴と鍵の大きさが合わない! どういうことだよ! がちゃがちゃがちゃがちゃ。がちゃがちゃがちゃがちゃがちゃ。え、そんな、え。あ、と。がちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃがちゃ。こんなことやっても開くはずない!
 とりあえず逃げよう、と振り返ると、そこには祖父が、
「何、やってるのかな」祖父はほほ笑みを浮かべているが、いつもの優しい目を細めた笑顔ではなく、もっと邪悪な、
 悪魔。その背中に黒い翼は生えていないし、化け物のような姿もしていなかったが、少年には悪魔にしか見えなかった。「残念だよ」
 酷薄な笑顔を顔に貼り付けたまま、祖父は少年の首を掴み――。

「ありがとうございます」
 少年が奈々さん――そう、あのバイトの女性だ――に頭を下げると、「本当に気にしないで」と薄く笑った。
「でも本当に無事で良かった」
 少年を殺そうとした祖父を後ろから殴って気絶させたのは、奈々さんだった。最初は困惑して感謝の言葉を伝えられなかったが、事情を聞いた今は素直に感謝を伝えることができた。すくなくとも奈々さんには。
 話してる間もサイレンの音は鳴り響いている。
「本当にごめんなさい。危険な目に遭わせて」
 詳しい事情を教えてくれた奈々さんの話によると――。
『あの人があなたに渡した鍵って、本物じゃないの。本物をお祖母さんに貰ったっていうの、あの人の嘘なんだ。お祖母さんから聞いたのは、鍵が存在して死体をお祖母さんが発見した、ということだけ。実際に鍵を受け取ったわけではない。お祖母さんと関係の薄いあの人が、お祖母さんから預かれるわけないから。あの人は、あなたを囮にして私にお祖父さんの罪を暴かせようとしたの。本当にひどい……。本当にごめんなさい……』とのことだった。
 彼女が〈あの人〉と連呼する謎の男は、彼女の兄だった。そして彼女は兄の手伝いのために、近隣に住む女性から始まり祖父母と邸宅に出入りすることが可能になるまで関係性を作ったらしい。その彼の執念に恐怖を覚えたが、その理由を聞き、納得するような気持ちになった。
 殺された母娘というのは、あの人の妻と娘だ、と奈々さんは教えてくれた。そして彼自身が直接行かなかったのは、「おれが直接行けば殺してしまうかもしれない」というものだった。
 彼は最後の良心の線だけは守ったのだ……と思うと、すこしだけ恨みに感じていた想いが浄化されていった。
 ただひとつだけ不可解なことがあった。
 祖父が所持していた合鍵によって地下の扉は開け放たれた。
 その部屋には簡易の冷凍室が備え付けられてあり、その中には聞いていた通り、白骨化された死体が入っていた。しかし祖母の死体はどこにも無かった。
 殺したのは祖父なのでは――?
 結局、祖母の死体と鍵が見つかることはなかった。

 決して暑くはなかった。しかし緊張のせいか、ひとすじの汗がこめかみを伝って流れた。
 私の隣には悪魔がいる。
「本当に殺す必要はあったの?」
「じゃあ逆に聞くが、助ける必要はあったのか? あの子を」
「それは……ごめんなさい」
「今回だけだ。許すのは」
 邪悪な笑みを浮かべる兄は、やはり私には悪魔にしか見えない。妻と娘を喪ってから兄はおかしくなってしまった。そして私にあらがうすべはない。
 ハンドルを握る手はかすかに震えている。助手席に座る男を兄として、家族として扱うことができなくなってから、どれくらい経つだろう。もう恐怖の対象でしかない。今回の件だってそうだ。
 この車のトランクに自分の祖母の死体が隠されているなんて、あの子は一生知らないままだろう。鍵を渡すのを拒んだせいで、死体になってしまった哀れな老婆。鍵は男の手の中にある。本物を渡さなかった理由は簡単だ。
 自分の孫を殺させる。この男は自分の妻と娘を殺した老人にもっとも不幸な人生を送らせたいのだ。そのためには他の者の死さえ厭わない。それどころか一族郎党皆殺しくらいしても不思議ではない。
「まぁ一回、刑務所に入った後に、っていうのも悪くないかな」
 願わくばあの少年とこの男がふたたび邂逅しないことを、心から祈る。どんな過去があれ、今のこの男は悪魔だ。
 自分も戻れないところへ来ていることは知っているけれど、そう願わずにはいられなかった。

(後書き)

 ショートショートとしては長く、短編としては短い。どちらに分類するか悩みましたが、今回はショートショートとして掲載しました。「その死の行方は」とか、この作品とか、やはり荒っぽくても、エンタメ系のホラーを書きたい、と思っている自分が一番好きなのかもしれない。


[空想レビュー]『杏奈か麗、仁奈』都留州戸井[空想レビュー]「世紀の大駄作」への反論

[空想レビュー]『杏奈か麗、仁奈』都留州戸井

(※ここからはすべて存在しない小説について語っています。)

 どこまでも人をおちょくった作品だ。世紀の大駄作といっていい作品である。著者だけでなく、この作品の出版を許した出版社に憎しみを抱くほどだ。恋愛小説の〈れ〉の字も知らない作家と編集者が作った恋愛小説の悪い見本のような作品だ。
 本書『杏奈か麗、仁奈』は、片仮名に直せば『アンナ・カレーニナ』、作者名は『都留州戸井』は、トルストイのことだろう。帯には、別名義で著作のある作家が覆面作家で再デビューと書いてあるが、プロ作家の文章、描写とはおよそ思えないような稚拙さ! もともと大した著作の無い作家の受け狙いとしか思えない。すくなくとも私が評価することなんて絶対ないだろう、下手くそな作家だ。そもそもあなたは『アンナ・カレーニナ』を読んだことがありますか、と著者に聞きたくなるほど、その1/10でも、その崇高さを受け継いでいれば、まだ評価できたものの……。
 内容に触れるだけで気が重くなるが、触れないわけにもいかないだろう。主人公は結婚10年目、45歳の文具メーカーに勤務する営業マン。押しの弱い性格で仕事もうまく行かず、婚活パーティで知り合って結婚した妻は自堕落で鬼嫁タイプなので家でもこき使われている。まぁこの魅力の欠片も無い男が、杏奈、麗、仁奈という三人のタイプが違う(書き分けが下手過ぎて、どれも一緒に見えるんだけどね)女性と不倫する、という話なんだけど、私だったら絶対付き合わないね、こんな男。
 同僚で7歳年下の杏奈と同窓会で再開した同い年の麗はふたりとも美人であることが表現されているが、そんなふたりがこんな魅力ゼロの男を好きになるか。まぁ仕方ないここは百歩譲って許そう。問題は、三人目の仁奈である。美少女の女子高生が主人公に一目惚れして猛アタックされるのだ。こんな美少女ならたとえ援助交際だって人を選べるだろうに、よりにもよってこんなさえない男を……。恋人と別れてまで追い掛ける美少女の情熱的な恋。その恋に見合う相手ではない。
 主人公は最後、愛する女性とともに死を選ぶが、その相手が杏奈というのも微妙としか言えない。杏奈は、村上春樹を愛する文系女子。きっと著者の好みなのだろう。
 まさかこんな表現をもうすぐ2020年という世の中で使うことになるとは思わなかった。
 人間が書けてない小説だ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いじゃないが、これを評価する奴も私は嫌いだ。


[空想レビュー]「世紀の大駄作」への反論

(※ここからはすべて存在しない小説について語っています。)

 前月号にて本誌に寄稿されました書評家、青原由梨氏の書評に対して、作者の都留州戸井氏から反論文が届きました。都留州戸井氏に了承を得て本誌にて掲載することになりました。

 青原由梨様、先日の拙著に対する書評なのですが、わざわざ私の作品のために筆を費やしてくれたことには感謝しますが、あまりに不誠実な内容でしたので反論させていただくことにしました。あれで書評家を名乗れるなんて楽な商売ですね、と思わず言いたくなりましたが、そう言ってしまえば他の書評家の方々に失礼になるのでやめておきます。
 はじめに言っておきますが、私は何も厳しいことを言われたから怒っているのではありません。それはあなたもご存知でしょう? たとえ厳しくても誠実なものであれば、私は甘んじて受けます。私が怒っているのは、恣意的な(あるいは悪意のある)誤読と不誠実な言動に対して怒っているのです。私が言っている意味分かりますよね。もし分からないなら、この仕事辞めたほうがいいと思いますよ。いや、たとえ分かっていたとしても廃業すべきだとは思いますが。
 誤読に関してですが、何故、主人公の妻を《自堕落で鬼嫁タイプ》と書いたのですか。作中からまったく読み取れないと思いますが。わざわざ私は《献身的》で《ときに古臭い考えを相手に押し付ける》という文章まで使って主人公の妻を表現しているのに。
 書き分けが下手とか、主人公に魅力が無いとか、人間が書けていないとかは、主観的な批評としてしっかり受け止め、さらに研鑽していきたいと思っております。ただ、仁奈について《恋人と別れてまで追い掛ける美少女の情熱的な恋》と書かれていましたが、恋人と別れたのは仁奈ではなく、別の登場人物です、本気かそうでないのかは知りませんが、こういう誤読のせいで主観的な批評の信頼性がなくなっていることを肝に命じたほうがいいですよ。
 そして誤読もそうですが、不誠実な態度もひどい。まずラストのネタバレを注意書きもなく行うのは問題だと思います。ミステリじゃないからって良いという理屈にはなりません。まぁそれに関しては嫌だけど倫理感の問題なので我慢します。それよりも許せないのが、あなたへの信用が失墜したあの文章です。《もともと大した著作の無い作家の受け狙いとしか思えない。すくなくとも私が評価することなんて絶対ないだろう、下手くそな作家だ。》という文章。何故、そうやって嘘を吐くんですか? あなたは私の別名義も知っているでしょう? 私への書評いっぱい書いてくれたじゃないですか。それも絶賛の。あれは私の夢だったのですか?
 私の知っているあなたは、作品は批判しても読者を馬鹿にすることなんて無かったのに……。

(編集部注)編集部と都留州戸井氏との話し合いによって削除された一文があります。

[全文が掲載された都留州戸井氏のブログより、最後の一文を抜粋]

 知ってますよ、あなたと今作での私の相方である編集者との噂……それが原因なんでしょうか?

(後書き)

 一時期、空想レビューなる創作とレビューの中間にあるような文章を書いていた時期があります。その中でもっとも物語性のあるこの作品をショートショート集に掲載することにしました。変な作品に思えるかもしれませんが、自身のレビューに対する想いがかすかにかいま見えるのが、気恥ずかしくも懐かしい。