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【#17パレスチナ】分離壁に閉じ込められる

イスラエルにあるベツレヘムという街に行った。三大宗教の聖地エルサレムから南に約10kmほどの場所にある。

イスラエルとパレスチナの歴史は複雑だ。第二次大戦後に、国連からユダヤ人がこの一帯に建国を認められたとき、すでに住んでいたのがアラブ民族でイスラム教徒のパレスチナ人だ。

民族や宗派や考え方の違いもあり、イスラエルはパレスチナ人の土地を多く奪った。第二次大戦後から一九七○年ごろまでに数回にわたる戦争があり、徐々にパレスチナ人の土地は少なくなった。

今では、イスラエルの東側に位置するヨルダン川西岸地区と、西側に位置し軍事封鎖されて自由に出入りもできないガザ地区を残すのみとなった。

イスラエル人が住む土地とパレスチナ人が住む土地の境には、イスラエルによって分離壁という巨大な壁が建設された。パレスチナ人が自由にイスラエルに入って来れないようにするためだという。

ベツレヘムはそのヨルダン川西岸地区にある街で、比較的治安が安定しており、旅行客も訪れることができた。

鋭い社会風刺を鮮やかに描きあげるバンクシーという覆面画家がいる。バンクシーは分離壁を批判する意図で多くのアートをベツレヘムに残しており、俺はそのバンクシーアートが見たかった。あとは、パレスチナ問題について理解を深めたいという気持ちもあった。

市街では、バンクシーの花束を投げる青年というアートを見た。ガソリンスタンドに描かれており、大きく迫力満点。青年が白黒で表現されているのに対して、花束がカラフルで存在感があった。

花束を投げる青年

分離壁博物館にも行った。多くの展示の中で印象に残っているのは、イスラエル人、ガザ地区のパレスチナ人、西岸地区のパレスチナ人などと身分証が異なることだった。それぞれ受けられる福祉や権利に違いがあるのかもしれない。こういう仕組みからも、イスラエル人とパレスチナ人の溝を感じる。

分離壁博物館が入っている建物のコレクション。

昼ごろ観光を終えたので、帰ることにした。帰り道、分離壁に描かれた多くのアートを見ることができた。8mの壁をつくるという発想がすごい。
パレスチナとイスラエルの境である検問所に着いた。

この検問所では、正門とセキュリティチェックができる通行用のゲートがあった。ベツレヘムに入るときは、通行用のゲートから入った。正門は基本的にはイスラエルの兵士が使うものなのかもしれない。

そして、この正門にはイスラエル兵士が3人立っていた。通行用のゲートは、その右側にありジグザグの小道になっていて、奥には自動扉がある。その扉が閉まっていた。その自動扉には上のほうに色が表示されており、レッドだった。

正門

勝手が分からないながらも通行用ゲートの奥まで行くと、すでに20人近くが待っていた。嫌な予感がした。家族で来ていた欧米の観光客とパレスチナ人が雑談をしており、観光客が「この扉は、いつ開くの?」と軽く聞くと、パレスチナ人は「19時」とあっさり答えた。横で聞きながら信じられなかった。今は15時だったのだ。あと四時間も待つのか。

通行用ゲート。
ここからさらに右に折れて、奥に進むと自動扉がある。

多くの観光客も同感だったようだ。何人かいた欧米の観光客は、正門前の兵士に出してもらえるよう話に行った。一部は渋々といった感じで出してもらえていた。

それで俺も掛け合ったが、「Just wait here.(ここで待っていろ)」としか言わない。俺が掛け合った兵士は若く、命令だから言っているというような答え方だった。パレスチナ人も多く待っており、遠巻きにその様子を見ていた。

一度断られたが、もう一度交渉を試みた。若い兵士は俺がパレスチナ人ではないということもあり、上官とみられる年上の兵士に聞いていた。だが、その上官は俺を見ると、一顧だにしないといった様子で首を振った。

この男は、パレスチナ人やパレスチナに旅行に行くような奴のことなど、どうとも思っていないなと一瞬で感じた。

観光客だけでなく、あるパレスチナ人は兵士に向かってかなり激しく「ここから出せ」と何度も迫ったり、ゲートの周りに人だかりを作った。その度、「散らばれ」と怒鳴られていた。

大きな銃を携えたイスラエル兵士に向かって、すごい剣幕で物申していたので、撃たれる恐れがないのかと俺のほうが心配になるほどだった。

まず、理由を聞いても教えてもらえない。イスラエル人の態度は冷淡だったし、パレスチナ人が日常的にこんな理不尽な対応をされているならば、許されることではない。人間の尊厳の問題だ。

時間はあったし、多くのパレスチナ人もいたので、話す機会があった。一人はパレスチナ人の女の子だった。まだ、小学生くらいの年頃で、親の付き添いがあり集団で来ていた。「どこ出身か?」と突然聞かれ、少し話せた。「いつもこんな風に出られないのか」と聞くと、「いつもではない」と答えた気がする。

英語が全く話せないパレスチナ人とも画像を見せあうことでコミュニケーションが取れた。長崎県の平戸に行ったときの日本的な風景や料理を見せると、楽しい雰囲気になった。パレスチナ人も料理を見せてくれた。パレスチナ人は好奇心が強く、親近感がわいた。

三人目は、俺がイスラエル兵士に拒絶された様子を見ていたおじさんだった。「Israel is crazy.(イスラエルは狂ってる)。実際欧米人は通してもらえたけど、あなたは通してもらえなかったでしょう」と話しかけてきた。イスラエルに良い感情を持っていなかった。

四人目は、パレスチナ地域でツアーガイドとして働いているというおじさんだった。この人はなぜ出られないのかという理由を教えてくれた。その人によると、「金曜は礼拝で混むから」だそうだ。それなら、外国人を通したって大差ないはずだ。

俺がゲートに到着した当初は、欧米人であれば通してもらえることもあったが、しばらく時間が経つと、たとえ欧米系であっても通してもらえることはなくなり、欧米系や韓国人、ブラジル人など数名の観光客はただ待たされていた。

ずっとゲートの前でイスラエル兵士とパレスチナ人とのやりとりを見たり、通行用ゲートで開かないかなと待っていると、イスラエル人に管理されているような気分になり、大きなストレスを感じた。19時にゲートを開けることも、少し早めることも、さらに遅らせることも全て彼ら次第。俺たちはそれを受け入れるしかない。

正門付近

17時を過ぎると風が吹き、とても寒かった。寒すぎてじっとしていられないほどで、苦痛だった。18時50分ごろになると、多くの人が通行用のゲートに集まっていたが、ヘブライ語かアラビア語でアナウンスがあり、それによると「開けるのは、21時になる」と言う。

ツアーガイドからこの事実を聞いたときの落胆は大きかった。我慢の限界で、イスラエル兵士の横暴に心底腹が立った。また、正門前に戻り韓国人のグループに事実を告げていると、「オープン!オープン!」と大きな声が聞こえ、みんなが駆け出した。扉が開いたのか。

本当か?と俺も行くと、確かに通行口の扉の上の色がグリーンに変わっている。一度閉まったが、すぐに再び開いた。出口に向かって走りながら韓国人と子供のように、はしゃいで喜んだ。

セキュリティチェック、パスポートチェックがあり、外に出られた。バスが停まっていて乗り込んだ。欧米人が「It was nice!(良かった)」と大声で叫んでいたのを覚えている。

イスラエルとパレスチナについて分離壁博物館で理解が深まったと思っていたが、この体験ほどではない。まさか、パレスチナ人と共に分離壁に閉じ込められることになるとは思いもよらなかった。

パレスチナは苦しんできたと思う。アメリカはいつだってイスラエルの味方だったし、同じアラブ民族ということで支援してきたアラブ諸国も最近は影が薄くなっていた。国際的に孤立無援のなか、イスラエルによるパレスチナ自治区への入植により、領土を奪われることが既成事実になりつつあった。

何十年も続く大問題であるにもかかわらず、誰も明確な解を見つけることができずにいる。つい最近までパレスチナへの関心は決して高くはなかった。どれだけパレスチナ人は耐えてきたのか。イスラエル兵士の冷ややかな態度に接したことで、その一端を垣間見た気がする。

暖房の効いたバスは冷え切った身体を温めてくれたが、イスラエル兵士との会話の「あの感じ」は消えさることなく、いまも心に残っている。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!