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4/28[2]「移動や旅をすることについて」

今、久しぶりに、最寄駅のホームにいる。久しぶりといっても、せいぜい一ヶ月弱とか、その程度だろうが。それでも、この二十三歳というこの歳で、今までの経験を踏まえても、少し珍しいぐらいのスパンが、空いたのじゃないだろうか。

暮らし慣れた、歩き慣れた街を、電車に乗り離れていく。そのことに、どこか自分の中に高揚感を感じている。そんな、地元を離れ、別の街へ行くこと、について書いていく。

ちなみに、今日は二本目のnote執筆だ。これははじめての試みじゃなかっただろうか。自分で思ってた以上に、文章を書く、という活動における俺のフロー値が高く思えてきたので、今後もいけそうな日は二本書いていきたい。

応援してくれる人がいたら、嬉しいと思う。


今から5.6年前の、高校に通えなくなっていた時期、俺は学校に行くふりをして、そのまま電車で終着駅の、地元で一番都会の街に行き、そのエリアを特に当てもなく彷徨い歩いていた。

みんなが学校で一緒に授業を受けたりしているであろう間、一人で街を彷徨い歩くというのは、特別感の様なものも感じだが、それ以上にやはり寂しかった。

それでも、学校や家には帰りたくなかった。なんとなく、これ以上、今、あの場所にいたら、ダメになる、行くべきじゃない、という直観があった。当然褒められたものではないのだろうが、今でも特に後悔はしていない。

やはり「いつもの場所」を離れ、「いつもと違う場所」へ行くというのは、現実逃避、あるいは、気分転換、をするための、最良の方法なのではないか、と思う。


いつもと違った景色は、いつもと違った思考を導くと思う。ことわざで「可愛い子には旅をさせろ」なんてことも言うし、男と女を「船」と「港」に例えたりもする。

地元を離れ、旅をする、というのは、ただ現実を忘れる手段であるだけでなく、その人を成長させる側面もある、と思う。というか、そもそも「忘れる」ということと「成長する」ということが、何か切り離せない関係にある様な気もする。

野球をしていた時、お盆や正月休みなんかでしばらく野球を離れ、そして再開すると、案外感覚が冴え渡って、休みを挟む前よりも、どこか成長できた実感がする、ということがあった。

それと同じ様なことが、人生においても言えるのかもしれない。仕事や家庭、すなわち「いつものこと」を離れ、「いつもと違うこと」に、場所ごと移る。

江戸時代に庶民が豊かになってきた時から、民衆は旅をする様になったらしいが、やはり旅というのは最初の、自然な、文化的で健康的な、活動の様にも思う。


移動や旅を積極的にしていきたい。工夫をすれば、金を節約しながらできる旅も、きっと月一回はあるのではないだろうか。


生きているうちに、それも若くて綺麗で体がよく動くうちに、いろんなところに行って、いろんな人と話し、いろんなことを考えながら、大人になっていきたい。

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