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母親と過ごした昼間の日記(ビビンバ、水道管ゲーム)

予定が入れば、平日の昼間から自由に過ごせるのは、親の脛齧りウーバー配達員の冥利だろうか。別居している母親が休みということで、今住んでいる実家に遊びに(?)来た。


母親との関係は、最近は良好だ。俺が幼い頃は、かなりべったりで、俺が一人っ子で当時は友達が少なかったこともあり、親子にしてもかなり親密だったと思う。

その後思春期を迎えるにつれて、だんだんと距離が広がっていき、浪人期あたりに、俺の感情が爆発して、一時かなり関係が悪化した。もう戻れないかもしれないと思っていた。

だけれど最近になってまた仲良く戻れたのは、俺が何か、コンプレックスを克服しつつある、ということなのかもしれないし、母親の楽観的な性向も、一因としてあると思う。


さて、そんな母親と、ビビンバを一緒に作った。料理をするのは、久しぶりだ。母親と関わっていなければ、なかなか初動に踏み出せていなかったと思う。母親と関わると、何か変化があることが多いような気もする。

ビビンバは多分初めて作った。ほうれん草とにんじんともやしを湯がいて、味付けしてナムルを作り、牛肉を炒めて、コチュジャンなどで味付けをし、白飯の上に、ナムルと肉と、キムチと温泉卵をもりつけて完成だ。

かなり美味しくできた。よく料理をする母親も、コチュジャンで肉を炒めたのは初めてらしく、その美味しさに感動していた。原価を計算してみると、一人当たり3.400円ぐらいになりそうだった。お店で食べるのに比べれば、かなり安いな、と思った。


母親が買ってきた「水道管ゲーム」というのをやった。アメリカ発祥のカードゲームで、50年ぐらいの歴史があるゲームらしい。

お互い手札は五枚で、自分のターンになると、蛇口から、さまざまな形の配管のパーツを繋げていき、先に規定枚数を並べ終えた方が勝ち、というゲームだ。相手を妨害できたりもする。

これがなかなか面白かった。さすが、長いこと人気があったゲームだけあって、ルールの細かい部分まで、フェアで、整合性が取れている。こういうのは、やるのは結構誰でもできるが、考えつくのは、かなり大変だし、才能がいるのじゃないかと思う。


そして、ゲームの中でも、対話の様なものを見出している自分を、発見した。例えばこの配管の並べ方や、妨害の仕方、ゲーム中のやりとりなんかでも、その人が出るし、それを理解しようとしつつ、自分を見せていけば、それも対話の一つの形なのだろう、と思う。そしてそれは、ルールや目的が明確な分、割と参入ハードルの低い土俵かもしれない、とも思う。


さて、何度も読み返しているnoteに、「才能とは飼い慣らした呪い」「自分の呪いを知る、最もシンプルな方法は、親を観察すること」、というのがある。

せっかく親と半日過ごしたのだから、最後にこれについて考えてみる。今日新たに発見した、母親の呪い、すなわち、世界観の前提、はなかっただろうか。


・ゲームとはいえ、勝とうとすべき
・面白くなくちゃ、存在理由がない


と、いったところか。


こうした呪いの影響を、俺も受けながら、生きているのだろうか。

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