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持つべきものは「健康」と「友達」だ

ずっとうっすら知ってはいるけど、中々明確に認められない。つい目を逸らしてしまう。そんな人生の真実と今思えることについて。


神経質で、プライドが高い人間。というのは、想像がつくだろうか。これは、俺の自己認識だ。

それが一番現れるのは、「自分の間違いを認められない時」だと思う。他の人に責められ、間違いを認め、謝る、という、やるべき行動が取れずに、その場から逃げてしまう。そんな場面が、思い当たるだけでも今までの人生で幾度もあった。


なんでこんなことを書くのかというと、これが、今俺の人生がなんとなく停滞している、と感じられてしまう、原因になっていると思うからだ。つまり、今の俺が、不健康で、友達と過ごせていない、理由だ。

自分の過ちを潔く認められないから、嘘に嘘を重ね、ストレスを溜める。自分のありのままを受け入れられないから、友達といると自然に振る舞えず、疲れる。友達と過ごす時間が、サステナブルなものに、ならない。


「健康の有り難み」というのは、いつも失ってから気付く。腹を下したトイレの個室で、もうあんな過ごし方はすまい、と何度も誓う。それなのに、また同じものを選ぶ。愚かな人間だ。


そういう話とは別に、昔の方が今より健康だった様な実感もある。小学生の高学年の頃なんか、きっと今よりももっと自然に生きていた。部活や勉強がしんどかった高校時代でも、アトピーは今よりマシだった様にも思う。「思い出補正」的なこともあるかもしれないが。


考えてみれば当然のことなのかもしれないが、健康を第一に思う以上、今の自分の健康状態というのは、人生の状態を測る、重要な物差しになるだろう。それは自分に対してもそうだし、他人に対しても、そういうことになるのかもしれない。


最後まで残る、自分の道具は、「身体」だ。セックスの時にお互いに抱きしめ合うものも、「身体」だ。「身体」は、ずっと自分と共にあるもので、最も自分をよく表すものだ。



さて、他に自分をよく表すもの、といったら、「友達」だと思う。「いつも関わる5〜15人の人間の、平均値があなたである」みたいな話もある。


世界とは、友達のことである。だから、友達がいない人というのは、世界から疎外されているのだ。友達がいなければ、自分の存在がなんなのかさえ、きっとよくわからない。友達がいなければ、世界は寂しい。


友達がいないから、誠実に対話できる他者がいないから、自分の過ちに気付けない。気付いている過ちも、正せない。最初の話に戻る。悪循環である。


兎にも角にも、人生は「健康」と「友達」だ。その基礎がちゃんと築けなければ、きっと安全に、貯金することすらままならない。


もっとこのことを念頭に置いて、考えて、行動していかなければならない。身もふたもない様にも思えるが、結局人生は「健康」と「友達」だ。

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