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東京は生きやすくて生きにくい

東京が生きやすくて生きにくいのは、ずらりと高層ビルが並んでいたり、たくさんの人がいたりするからだろうか?

大阪にいた時は、「フリーランスで文章を生業としています」と言うと、「初めて出会いました」と言われることが多かった。それは個人としてではなく、奇妙なものをで見たと思われている感覚だった。東京で同じ言葉を伝えると、ふーんそうなのぐらいの目で見られる。東京には文章を生業としている人がたくさんいる。肩書きなんてどうでもいいから自分自身の実力で勝負しなよと言われている感覚に近い。だが、それは職業ではなく、自分を見てくれているという温かさのようにも思えた。

憂いを帯びた目がたくさん通り過ぎる交差点は、無理やり進まざるを得ないからかえって楽なのかもしれない。夏は音もなく過ぎ去り、夜は秋風によって暑さから逃れた。少し寂しいような気もするが、秋を目一杯楽しみたい気持ちの方が圧倒的に強い。夏の終わりをこの街東京で迎えるのは人生で3回目だ。20代後半まではほとんど東京に行く機会はなかったのだけれど、今では自分の棲家となっている。

主要な駅の周辺はどれも大きなビルに囲まれていて、うまく空が見えない。すこしの息苦しさとたくさんの人が行き交うことによる匿名性が心地いいような気がする。30年間住んだ大阪は人情に熱い街だと言われているけれど、裏を返せば他人の行動が気になると言っても差し支えない。東京の程よい距離感を大切にする風習の方が群れを苦手とする自分には合っている。大阪の人が嫌いなわけじゃないし、むしろ大好きな人ばかりだ。何かをしようとした時に、言葉をくれるのは、僕に不幸な思いをして欲しくないからだ。

地元の商店街に行けば、常連になったカフェの店主が話しかけてくれる。9月に大阪に帰省した時は、カフェの常連さんと一緒に食卓を囲んだ。大阪は街で知らない人が声をかけてくる場合もあるけれど、それはきっと人情の街ならではの心地よさとすこしの気まずさなんだろう。

他人の干渉はしすぎない方がいい。それは自分の人生ではなく、他人の人生を生きている場合があるからだ。でも、他人とのつながりは作っておきたい。孤独になりたくないという思いがある。誰も味方がいない世界は心細くて仕方がない。困った時に話を聞いてくれる人がいること、くだらない話でゲラゲラと笑い合える人がいることは、人生の宝であり守るべきものだ。

どんな関係性も近づきすぎると、大切なものが見えにくくなる。ピントがぼやけた視界では、正しい判断ができなくなる可能性が高いためだ。人を傷つける人ではなく、人を笑わせる人になりたい。時にうまくいったり、間違えたりしながら人は人によって磨かれる。適度な距離感で、なるべく干渉しすぎないように、相手を見守る程度に相手と接するといい。これがベストだと理解はしているけれど、身内だとか、仲間だとかそういった理由が関係性をなし崩しにしてつい距離感を見誤る。

その点、東京は楽だ。とある喫茶店の店主から「地方から来た人がほとんどで、純粋な東京人はほとんど減ってしまった」と聞いた。地方のいいところやだめなところを織り交ぜた街が東京である。それぞれがそれぞれの夢を追っているため、他人に干渉している暇などない。いい意味で匿名性をくれる街で、そこに寂しさを感じる場合もあるけれど、心地いい距離感がなぜかしっくりくる。

東京はある人にとっては生きやすい街で、またある人によっては居心地の悪い街だ。僕はまんまとこの街の魅力に取り憑かれている。その正体がなんなのかは知らないし、知りたくもない。人生には世知らない方が幸せなこともある。東京の魅力はあえて言語化しなくていいものだ。僕はこの先も東京で生きていく。全力で踏んだペダルはもう止まらない。そこに光がなくとも、目の前にあるものに懸命にしがみついていたい。

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