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球体関節人形と私

 多くは壁や土台に凭れ掛かって私を待っている。けれど、こちらを見ている様な気配はない。私がどれだけ近づき、どれだけその眼を覗き込んでみても、その濁ったような銀色の眼や海の様な碧い眼に、私は映らないようだ。しかし、この眼ほど美しい虚ろは無いのかもしれない、と私は思う。

 時に腕が、時に脚が、時に胴体が、時に眼が失われ、人間的ではない欠損を見せつけてくる彼等。あの人形は胴体の中身が無く、あばらの隙間から地面の色が見えている。と思えばあちらでは、艶めいた内臓が腹部から流れ出し、血に塗れたガーゼは身体と同化している。

 私は何故か、それらから悲劇を感じない。寧ろ、全てを了解しているかの様で、微笑を浮かべてさえいるようにも見える。私の中で、その固定化されているはずの表情がみるみる内に変化していき、途端にその複雑極まりない表情に圧倒されてしまうのだ。その複雑さは、まるで全ての可能性を握っているかの様である。
 動かない表情が変化するのは、きっと私が人間であるからで、全ては勝手な虚構、単なる嘘だ。そういう嘘が、一番私を驚かせる。


 彼女らの虚飾は常に真実の領域と交わっては遠ざかり、彼女らと対面する私達の世界を歪ませる。彼女らの存在が私たちの世界に入りこみ、隣にいることに違和感を感じることなく、安住したりする。それは一種、憑りつかれる様なものだ。人形の魂が息づき始めた私達の世界は、多分少し変わっていて、けれど次第に、少しずつ、少しずつ、平衡になっていく。

 

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