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進化論?創造論?

こんにちは!
新米クリスチャンのリョウです。

このブログは、全くのノンクリスチャンだったボクが、
クリスチャンとして導かれ、その中で見たもの感じたことなどを
気ままに書き綴っていこうかと思っています。

不定期更新ですので、たまに覗いてみてください。

第十一回目は、「創造論」についてです。

この世界をだれが作ったのか?
という問いに、クリスチャンなら誰でも答えられると思いますが、
ノンクリスチャンだったボクは、幼い頃から「ダーウィンの進化論」を教え込まれて育ってきました。

それが当たり前でしたし、そのことを前提にこの世界や、自分の人生を見ていました。

今回は、「進化論」を教え込まれていたボクが、
どのようにして「創造論」を悟るようになったのかをお話したいと思います。

あくまでも今回の内容は、ボクが何故、創造論を信じるようになったのか、
その経緯についての話なので、
「進化論」か「創造論」か
どちらが正しいのか?ということについてより詳しい内容は、
コチラの動画をご覧ください。
↓↓↓

進化論信者だったボクが感じていた違和感

さて、ボクはもともと学校では理系を選択していたこともあり、
理屈で納得出来ないと、気が済まないという一面がありました。

反対に、妄想大好きな子供でもあったので、
見えている世界が全てではないと、感覚的に捉えている部分もありました。
漠然と、世間一般に言われている世界観に違和感は持っていたわけです。

とはいえ、「人類が猿から進化した」とか、「地球が46億年以上前に出来た」
というのは疑う余地もなく、当たり前と思っていました。

聖書に出会うまでは、知的好奇心から人類の進化の過程や、
地球の歴史についてもよく調べていました。

当然進化論を前提とした内容を調べていて、
人類がどのようにして世界中に散らばっていったのか、どのように社会性を築いていったのか、何故宗教が生まれたのかなど、
一人で調べては友達に自慢げに話していました。

他の人が知らないことを知っている。
というのは、非常に優越感を感じるもので、
今思えば恥ずかしい限りなんですが、
間違った知識を、さも真実かのように語っていました。

しかし調べれば調べるほど、説明がつかないような事も出てきてしまいます。

猿と人類の間の化石が出てきていないことや、
突然変異で生まれた生物が、その変異を持ったままの子孫をきれいに残せる確率ってどれくらいあるの?とか
(基本的に突然変異が子孫に伝わることはない)
他にも、地層に縦に埋まっている化石の発見や、
恐竜と人間が同じ時代にいたと思われる足跡の化石
などです。

そうやって、証拠で説明が出来ないと、今度は想像で推理していくんです。
こうだったんじゃないか?ああだったんじゃないか?と。

ボクは人間の証拠のない推理ほどあてにならないものはないと思っています。

例えば人間関係一つとっても、なんの証拠もなく、
「あの人はきっとこうに違いない」
「あの人はこういうタイプだから、絶対こう思ったに違いない」
と勝手に決めつけて、正しかったことがあるでしょうか?

実際に本人に聞いてみて確認してみてください。

ほとんどボクらが想像もつかないような背景を持っていて、
自分の勘違いだったことに気が付くはずです。

科学も同じで、根拠のない想像は、あくまでも想像であり、
どんなに権威のある科学者の発言であっても、証拠がないなら信頼できるものではない、といった認識を持っていました。

実際、長年信じられてきた学説が、たった一つの発見によって全て覆される、なんてことは科学の世界ではざらにあるそうです。

しかしながら、あくまでも“まだ”証拠が見つかっていないだけで、
相変わらず地球は46億年以上前にできたし、人類は猿から進化した
と思っていました。

科学では説明つかないことは、
「面白い世界のミステリー」
くらいの認識で、あくまでも想像を膨らませる材料に過ぎませんでした。

余談ですが、聖書に出会う前、東大の科学者の知り合いと食事に行って、
根掘り葉掘り質問してみたことがあります。

その方は無神論者でしたが、科学の世界で研究すればするほど、
「この世界が偶然できたなんて考えられない」
と話していました。

偶然とは考えられないくらい、この世界、宇宙は、
物理学的にあまりにも完璧過ぎるんだそうです。
(4つの力で調べてみてください)

それでも「絶対に偶然出来たんだ!」ということを押し通す為に、
マルチバース(宇宙は他にも無限に存在していて、そのうちの一つがボクらが生きているこの宇宙である。だからこの世界は“たまたま”信じられないほど完璧なバランスで成り立っている、というような考え方です。
だいぶ簡単に説明しているので、正しい説明はご自身で調べてみてくださいね)
などの理論が出てきたと話していました。

それ以外にも、昆虫の生態を調べていくと、進化論は絶対にありえないことが分かったり、
放射性同位元素による年代測定法には問題点があり、(特に古いものに関しては)信頼できるものではないなど、
調べれば調べるほど、
進化論の信憑性は、疑わしいものになっていきました。

しかし当時のボクは、それでもやっぱり「進化論」を信じていました。

というより、「創造論」があまりにもファンタジーに思えて、
信じられなかったんです。

「創造論」は、科学を知らない頭の悪い人や、昔の人が考えた妄想、
と思って、馬鹿にしていました。

進化論的な世界観

こうして進化論を基本とした世界観で生きていたボクは、
社会生活を送る中で、次のように考えていました。

「自分がたまたま偶然生まれた存在なら、この世界で何か爪痕を残さないと、生きてきた証が立てられない。生きている意味がない」

この考えのもと、ボクはこの世の成功を目指しました。

お金は欲しかったですが、お金の為に成功したいわけではなく、
ちやほやされたかったですが、それが目的なのではなく、
いいところに住んで、いい服を着たかったですが、
それはまわりの影響でそう思っていただけで、本当はどうでもよくて、
「成功しないと生きる価値がない」
「世間に認められて、ようやく自分の価値を認められる」というのが、
ボクの成功したい理由でした。

そして、この世で生きのびるためには適者生存が原則だからと思い、
自分を無理やり変化させようと努力しました。

納得いこうがいかまいが、
この世の言っていることに合わせないと、
この世の変化に合わせていかないと置いて行かれる、
という恐怖を植え付けられて必死で生きていました。

また、弱肉強食の精神で、
人生はただ勝つことが全てであり、負けたらゴミのように価値がなくなる。
と思っていました。

この世の成功者はみんな正しくて、この世で結果を出していない人の話は聞く価値がない。

この世に取り残された“適者”または“強者”じゃない人間は、負け組だ。
そんな風に、人を見下していました。

その結果、努力すればするほど苦しくなり、
自分が何のために頑張っているか、
真にどう生きていけばいいかも、分からなくなっていきました。

進化論の理屈に限界があるように、
進化論をベースにした生き方には、限界があったのです。

全ての矛盾を解消してくれた創造論

そんな時に、聖書に出会いました。
今思えば、これ以上ないほど完璧なタイミングで聖書を手に取っていたと思います。

進化論の理論に限界があることを知り、
進化論的な世界観の限界を体験したタイミングで、
神様の存在を知りました。

なので、創造論は驚くほど簡単に受け入れられました。

創造論の信憑性も調べてみると、
進化論よりもむしろ矛盾がなく、
科学的にも理屈が通っていると感じました。

そして何より、神様がこの世界を創り、
ボクを創って下さったこと。

神様が愛であり、ボクを愛して下さっていることを知った事によって、
人生が180度変わりました。

生きる意味を与えられました。

進化論は、ボクらの心に思っている以上に根深く刺さっています。
そして、それによって神様を信じることができず、間違った努力で、自分を傷つけ、他人を傷つけてしまっています。

しかし、一度神様の存在を受け入れて世界を見渡すと、
世界中に神様の愛があふれていることに気が付くはずです。

きれいな花々
かわいい動物たち
壮大な夕日や虹の美しさ

一度思い込みのフィルターを外して、素直な心で世界を見れば、
すぐに神様にたどり着けるんじゃないかと思います。

今回はクリスチャンにとっては、あまりにも当たり前の話だとは思いますが、
イエス様を知らない人たちが、
どんな風に進化論を信じているのか、
どんな風にこの世を見ているのか、
少しでもそのヒントになればと思い、書きました。

「進化論」という根深い思い込みから解放され、
一人でも多くの方が、この世界を創造された愛の神様に出会うことを心から祈っています。

※それでも創造論は馬鹿げている。進化論こそ科学的だ。
というノンクリスチャンの方は、コチラの動画がオススメです。
キリスト教の牧師の講演ですが、あくまでも中立な立場で、科学的にどちらが正しいか、検証してくださっています。
考える材料の一つとしていただければ幸いです。
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