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クリスチャンとしてどう生きるべきか?

こんにちは!
新米クリスチャンのリョウです。

このブログは、全くのノンクリスチャンだったボクが、
クリスチャンとして導かれ、その中で見たもの感じたことなどを
気ままに書き綴っていこうかと思っています。

不定期更新ですので、たまに覗いてみてください。

最近よく思うことがあります。
クリスチャンとしてどう生きたらいいのか?ということです。

聖書に出会うまでは、とことん自分の幸せを追い求めていました。
お金や称賛や、この世の成功を求め、
刺激的な楽しみを求め、それでも心が満たされないので、お酒を飲み、感覚を麻痺させて生きていました。

人のために何かをしたとしても、心のどこかで見返りを求め、
与えたのに返ってこないと
「感謝がない!」
「そんな感謝の心がないやつは、いつか痛い目にあうぞ!」
などと腹を立てて心の中で非難していました。

そんなボクが聖書に出会い、神様の愛を知り、自分がいかに自己中心的で罪人かを悟りました。

少し時間はかかりましたが、この世の成功やお金や称賛に興味がなくなり(ゼロになったかと言われれば嘘になりますが…)
神様との時間を大切に思うようになりました。

そこで最近思うことは、自分は神様に出会えて感謝の日々を過ごしているのに、その祝福を独り占めしてていいのか? ということです。

行為によって救われることはありませんが、クリスチャンとして生まれ変わった人はどう生きるべきなのでしょうか?

ギブ&テイクの世界

この世界は、ギブ&テイクの世界です。
「何かを与えたら、その報いを受け取るべきだ」という考え方です。
これは非常に一般的で、むしろギブ&テイクの概念を持っていないと、ビジネスの世界ではやっていけないと非難されたこともあります。

30代、この世で成功しようと思っていた時期に学んだ成功哲学として、
ギブ&ギブの精神があります。

もらうことを考えず、
与えて、与えて、与え尽くすと、いずれ与えられる、
という様な考え方です。
ボクはまさにこのことを実践するため努力していました。

しかしこの様な生き方も、結局動機は「与えた先にいいことが待ってる」というものでした。
なので、結局やっぱりギブ&テイクなのです。

宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」のように、
与えて与えて、与え尽くして、それでもなお木偶の坊と呼ばれることを良しとする様な人生を、誰も望んではいないのです。

でも、クリスチャンは違います。
もう既にイエス様からたくさんいただいてるので、これ以上もらう必要はないのです。

貧乏でも、馬鹿にされても、親友に裏切られても、怪我や病気に苦しめられても、それでもたくさんイエス様に与えてもらっています。
永遠の御国の約束があります。
だから大丈夫なのです。

正直に言うと、そういう意味ではボクはまだそこまで完全にクリスチャンでないかもしれません。
お金がなくなる恐怖はあるし、馬鹿にされたら腹が立つし、親友に裏切られたら落ち込みます。
怪我や病気で心も病んでしまうような弱い人間です。

でも、その渦中にあって、神様の愛に気がつくと、どの様な問題も必ず乗り越えることが出来ます。
人や物では得ることが出来ない平安を得ることが出来ます。

今後もきっと、心がちぎれそうなことが起きるのだと思います。
その時一度は崩れ落ちてしまうかもしれません。
むしろ、ボクは崩れ落ちる自信があります。
それくらい、ボクは弱いです。
でもそれ以上に、倒れても、必ず神様がそばにいてくださり、乗り越えさせてくださるということに確信があります。

そう信じられるなら、この世での出来事にとらわれる必要がなくなります。

どんな苦難や困難にも、必ず解決を与えてくれる約束があるのは、クリスチャンの特権ですよね。
しかもただで、人数制限なしでもらえる恵みがあるのです。
だから、この恵みを独り占めはすることは出来ません。

イエス様というプレゼント

クリスチャンが与えられるものって、一体何があるんでしょうか?

一つはやはり、イエス様を伝えるということだと思います。
イエス様を伝えるということは、これ以上ないプレゼントだと思います。

想像してみてください。
例えば小さな子供が、ある密閉された部屋にいるとします。
外から声は一切聞こえない部屋です。
そこには、たくさんのおもちゃや、お菓子、ぬいぐるみなどが置いてあります。
そしてその部屋には、おもちゃだけではなく、金の延べ棒もあったとします。

そこで部屋にいる子供に、「この部屋にあるもの一つだけあげるよ」と伝えます。
すると子供は、どうすると思いますか?
自分の好きなおもちゃに飛びつきますよね?

しかしその部屋の外では子供の親がその様子を見ています。
そうしたら親は、なんて言うと思いますか?
もし、皆さんなら、なんて叫びますか?
「金の延べ棒にしなさい!!」
と言うのではないでしょうか笑

ボクならそう言います。
「金の延べ棒があれば、その部屋にあるおもちゃ全部買ってあげられるよ!!」と思う筈です。
でも、親の声は子供に届かないんです。
分厚いガラスが、声を遮断してしまうんです。
想像すると、すごいヤキモキしますよね?

ちょっと変な例えだと思いますが、
神様は、その親の様に子供を見てるんじゃないでしょうか?
「金を手にとれば、全てが手に入るのに!」
もっと言えば、
「金の価値を知れば、そこにあるおもちゃなんてくだらないものだとわかるのに!!」

そして、その子供はボクたちなんです。

親(神様)の訴えなどどこ吹く風で、子供(ボクたち)は、目先のおもちゃに夢中だったりします。
でも神様は、「いいから金にしなさい!」などとは、決して言わないんです。
子供(ボクたち)の選択を尊重してくださるんです。

しかし運良く、ボクらは聖書という金の延べ棒を手にして、しかもそれがその部屋にあるどのおもちゃよりも価値があることに気がつきました。

さて、もう一度親の立場に立ってみます。
おもちゃに夢中な子供の横に、金の延べ棒の価値に気づいた子供が現れたんです!
親の立場なら、どう思いますか?
「よし! 金の価値をあの子に教えてあげてくれ!!」
と期待しますよね?

それなのに、金の価値に気づいた子供は自分だけ金を手に取って、他の子供にその価値を伝えようとしないんです。
他にいくつも金の延べ棒は置いてあるのにです。
どう思いますか?
「なんて薄情なんだ!!」
と思いませんか?

ボクらクリスチャンは、金の価値に気づいた子供です。
だから、おもちゃに夢中の他の子供に、そのことを伝えなくてはなりません。

だから、クリスチャンにとって最も大切なことは、イエス様を伝えることなのだと思います。

小さな出来ること

他にクリスチャンとして与えられるとものはないでしょうか?
「人に親切にする」
というのも出来そうです。

ボランティアなどの慈善事業が出来る人は素晴らしいです。
でも、大きなことが出来なくても道端のゴミを拾ったり、悩んでる人に声をかけたり、笑顔で元気に挨拶するということだけでも、誰かの救いになるかもしれません。

それぞれに与えられた賜物があると思います。
お金や才能があるなら、それを使えばいいし、
お金も才能もないと思っても、明るい性格で人を元気に出来たり、人の話を聞く達人だったり、一緒にいると落ち着く空気を放つ才能があるかもしれません。
どのような形であれ、人に与えることは出来そうです。

何故そんなことをわざわざ書くかというと、ボクはつい大きなことをしたくなってしまうからです。
結果のわかりやすい、大きな「善いこと」をしたくなってしまいます。

小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。 


ルカによる福音書 16:10

小さなこと、誰にも気づかれないようなことこそ、大事ですよね。
毎日自分に言い聞かせています…。

そして、全ての行為が神様の栄光になるように祈っています。

直接神様の話をしなくても、
これも、きっと伝道なのだと思います。

受け取れない、見せかけの謙虚

そんな風に、ただでもらったのだから、ただで与えようと思って生きているのですが、ある時、ふと気づいたことがありました。
「与えること」には最善を尽くそうと努力するのに、「受け取る」ことがうまくできないということです。

日本人特有の癖なのかもしれませんが、
「ボクなんか…いいんです」
という、一見すると謙虚に見える様な態度を取ってしまいます。
見せかけの謙虚です。

先ほどの、金の延べ棒の話を思い出すとわかりやすいです。
「金の延べ棒? ううん、ボクなんかがそんなすごいものもらったら申し訳ないから、この小さいおもちゃで我慢するよ」
そういって、恵みを受け取らない子供がいたとしたら、親は喜ぶでしょうか?
神様は、全ての子供に金の延べ棒をあげたいと思っている筈です。

だから神様が与えようとされる恵みは、気持ちよく受け取るべきですよね。
実はこれが結構ボクにとっては課題でした。
決して「利己的な祈りに応えてほしい!」
ということではなく、クリスチャンとして、うまく出来たら受け取るとか、いいことが出来たら受け取るというのではなく、
失敗ばかりのボロボロのまんまで受け取るということです。
こんなぼろきれのような自分であっても、神様は愛してくださってると信じるということです。

よく考えると、受け取らないのって高慢ですよね。
神様から戴いた恵みに感謝することなく、「自分なんか」と自己憐憫に浸ってるのですから。
仕事があることも、ご飯が食べられることも、温かい布団で眠れることも、信仰の友と高めあえることも、全てもらっているくせに、「ボクなんか」などと言って神様の愛を信頼していないのは、高慢なのだと最近よく思うようになりました。

もっというと、人が落ち込む時というのは、
過去の自分の経験で判断したり、
自分の性格のせいにしたり、
自分の勝手な予想で諦めたり、
「神様が変えてくださる」
という恵みを拒否して、自分だけを見つめている時なので、すごく高慢なんですよね。
失敗した過去は神様なしでやった経験だし、性格も生まれ変わらせてくださるし、未来は神様しかご存知ない。
だから心配することなく神様から受け取ろうと思います。
「落ち込むのは高慢!」
心に刻み込みたいと思います。

「受け取る」話だと、
まだ東京に住んでいた頃、こんなことがありました。
ある日、ボクは地下鉄の構内を歩いていました。
すると車椅子の方が駅員さんを呼んで、小さな階段を登らせてもらっていました。
駅員さんは2人がかりで車椅子を持ち上げて、階段の上に運んでいました。
それを見たボクは、思いました。
「車椅子の方も心苦しいだろうなぁ。ボクだったら申し訳なくて、次からはお願い出来ないだろうなぁ…」。

すると、車椅子を持ち上げて、階段の上まで運んだ駅員さんは、とても清々しい顔をしながら、笑顔で「またいつでも言ってくださいね!」
と車椅子の方に声をかけていました。

その時気がつきました。
「申し訳ないなんて、思う必要なんてなかった! 駅員さんは、人に親切に出来たことで心が満たされているんだ。
もし車椅子の方が遠慮して、駅員さんにお願いしていなかったら、駅員さんはこんなに心が満たされることはなかった。
もしかしたら、遠慮することによって誰かが愛を与える機会を奪ってしまっているのでは?」

実は、人は愛を受けた時より、愛を与えた時の方が、愛が育ちます。

だからクリスチャンとして与えることに精一杯で、受け取ることを疎かにしていると、
人がせっかく愛を与えて、神様の愛に近づく経験をしたかもしれないのを阻害してしまうかもしれないのです。

教会では、お昼の時間に数人の姉妹がおかずを持ってきてくださいます。
ボクは、恵みを受け取る練習と思って、ありがたくいただいています。
(いつも本当にありがとうございます)

クリスチャンじゃない方からも、親切心から何かを与えてもらう時があります。
もちろん、「いいお酒をあげるよ!」と言われても、いただくことは難しいですが、神様と自分との中でしっかり線引きをした上で、救いとは直結しないような問題に関しては、できる限り気持ちよくもらうように心がけるようにしています。

誰でもプレゼントをあげる時、喜んでもらえたら嬉しいですもんね。

イエス様を知らない方も、愛情溢れる人は多いです。
例えば職場に問題を持ち込むような人であっても、家族には愛を持って接するような方もいます。
クリスチャンとして、愛を与える存在になりたいと常に思っていますが、イエス様を知らないこの世の全ての人に愛がないと思うのは高慢です。
まだイエス様を知らないだけで、きっと愛を与えたいと思っているはずです。

だから、愛を与えて、
そして感謝を持って、愛を受け取って、喜びを与える。

奪い奪われる世の中だからこそ、クリスチャンの周りには与え合う循環を作る。
クリスチャンだからといって、自分の標準を突きつけて、愛の循環を堰き止めないように気をつけないといけないですね。

この世の塩となり光となり、
この世を天国にする
そのようなクリスチャンになりたいです。


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