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ボスポラス海峡とニューデリーの人間



友人は素直に、「アッラーフ・アクバル、ラー・イラーハ・イラーッラー…」と復唱した。「やーい、お前今日からイスラム教な」と馬鹿にしたら、「お前も1度唱えたんだからイスラム教だ」と言われてしまった。

しまった。明日から、我々は毎日礼拝をしなければならない。



僕は21歳の大学4年生であり、来年度からは地方都市の民間企業に勤める手筈となっている。とくに特別な才能もなく、ただのうのうと日々を暮らしていたわけである。今現在も、そのように暮らそうと心掛けている。

21歳とは、いわゆる「モラトリアムの最終決戦」である。今旅立たねば、この生涯で世界中を回ることなどないだろう。ぼんやりと、そのような危機感がぽつぽつ降り積もっていた。

福岡空港 国際線

面倒くさがりなボクは面倒くさがりなりに、心の中の不安を払しょくする方法を考えていた。そこで1つの案を思いついた。

「なかばシリを叩かれたような気持ちで、世界旅行に出よう」

その程度の覚悟であったし、そのくらいの事しか出来ない人間であった。

長期間の旅、いわゆるバックパッカーになるようなのも、どこか面倒な気がする。そもそも僕は、乗り物酔いの激しいタチである。”ヒッピー族”を目指そうとか、そういう文化思想もないわけである。

かの有名な紀行小説「深夜特急」のように、「バスに乗ってユーラシア大陸を横断し、ロンドンを目指すのだ!」なんて覚悟はサラサラ持てぬ。

そこで怠惰な僕は、ひたすらにネットで航空券をいじくりまわしながら、ある名案を思いついた。

「飛行機の乗り継ぎを利用して、世界を回ればいいのだ」

乗り継ぐ飛行機のスパンを24時間以上あけて、次の飛行機が来るまでの1泊2日で、1つの国を回ろう。とりあえずは、大学の友人がいるドイツのミュンヘンを目指そう。彼が日本から出ていくときに、ドイツまで会いに行く約束を取り付けていたわけである。帰国の際には、またもや飛行機を乗り継いで、別の国へ観光する。

このように怠惰を徹底的に極めた上で、僕は「20日間で7カ国を回る世界旅行」へと出かけたわけである。そのアホな記録を、ここに残す。

【周遊した国:一覧表】

1.シンガポール (1日)
2.ドイツ (4日間)
3.チェコ (1日)
4.トルコ (7日間)
5.ジョージア (3日間)
6.インド (2日間)
7.中国:香港 (3日間)

出発日:日本で感じた劣等感

2023年10月5日、秋晴れとはいかない空模様である。小さなリュックサックを1つからって、1人で福岡空港へと向かっていた。「1ヶ月ばかり家を空けますので、そのおつもりで」と知り合いの幾人かに告げて、いよいよ出発の日である。

知り合いは自分の人生を生きるのに忙しいらしく、その返事は「はあ」とか「ほお」とか、そんな程度であった。それほど大きな事を成し遂げるわけでもないので、そんなものである。


少し時間はもどって、出発の3日前。

2023年10月2日、高校時代の友人の結婚式があった。生まれ故郷の宮崎県へと帰り、友人の祝福を祝った。たいへん盛大な式で、御両家はホロホロと涙を流しながら彼らの門出を祝っていた。

そこからトンボ返りをして、出国日である今日を迎えたわけである。

今のボクには、どこか虚しさのようなものがあった。

「だらだらと3年も4年も働きもせず。大学生の身分であるのに、学業に身を捧げるわけでもなく。」といった生活を続けていた自分。高校を卒業して立派に働き、結婚まで行きついた友人。

その歴然とした”差”が、虚しさの原因である。「差」というものを誰かから見せつけられたわけでもなく、ボク自身が何となく感じてしまったわけである。ボクの人生は、いまだ誰にも誇れるものでは無いのだ。



自宅のカギを締めて、自転車に乗って湯田温泉駅へと向かった。

「電車が、まいります」という変な音韻のアナウンスを聞きながら、山口線に乗って新山口駅へと到着した。

新山口駅から博多行きの新幹線に乗り込み、自由席もスカスカに空いていたので、2人席に座る。ひとときホッとしていると、「大学で学割証を発行し忘れた」と気づいた。その日はコーラを買うのを辞めた。

博多駅を縦横無尽にすり抜けて地下鉄空港線に乗り換え、福岡空港へと到着した。入国審査も終わってそろそろ出国である。搭乗準備をしようとして、水飲み場で水を飲んだ。

水道水を何の抵抗もなく飲んだのは、この1ヶ月間の旅行で、この日が最初の最後である。


第1便:シンガポール

初代首相のリー・クアン・ユーが残した有名な言葉がある。

「人生を投じて得たものは、シンガポールの成功」
「諦めたのは自分の人生だ」

シンガポールは、人口540万人を超える大都市でありながら、その面積は東京23区と同等の大きさである。交通インフラがたいへん発展しており、チャンギ国際空港から1時間も電車に揺られていれば、いともたやすく市街地へ行くことが出来る。

夕刻のシンガポール

福岡空港からシンガポール・チャンギ国際空港までは、「シンガポール航空」という航空会社を利用した。「世界でもっとも顧客満足度の良い航空会社」という評判は僕の耳にも届いており、いったいどれほどサービスが良いというのか。とても楽しみにしていた。

機内には、枕とブランケットが備え付けてあった。窓のブラインドが見当たらずにキョロキョロしていると、なにやらライトの点灯ボタンがある。押してみると、窓から青色のライトが発行することによって紫外線カットがされていた。いつでも窓の外を見ることが可能なわけである。

さらに驚くことに、「誕生日おめでとう」とお祝いのケーキまで出されている方がいた。この航空会社は、ホスピタリティの化け物が運営しているに違いない。自分が働くことを考えると、3日で辞めさせられるに違いない。

座席から見えたテレビ。韓国ドラマだろうか


機内で隣の席に座っていた、「これから乗り換えて、インドネシアのジャカルタに行く」という日本人男性が声をかけて来た。シンガポールの電子入国カードの書き方が分からないと言われたので、入力の仕方を教えた。

「1時間後には、ジャカルタへの便が出発なんだ」と言って、男性は我先にと飛行機を降りていった。その雰囲気から察するに、おそらく彼は大学教授で、研究会に参加するのではなかろうか。

次のドイツ行きの飛行機が来るまでには、9時間の暇があった。特に急ぐ予定もなかったので、飛行機を降りた後は入国審査前の椅子でパソコンを打っていた。割と気が入ってしまい、「9時間はPC作業だけでも時間が潰せるな」とさえ考えていた。

しかしこれだけで「シンガポールに滞在した」、というのも酷な話である。やはり外に出よう。重い腰をあげて、入国審査を受けた。

シンガポール空港は、おぞましいほどの広さである。歩いて歩いて、空港を20分ほど歩いた。どこへ向かって歩いたのかというと、シンガポール空港に2019年にできた「JEWEL(ジュエル)」というデパートに向かった。

地面に向かって一直線に流れ出る人工の滝のようなものが目の前に現れて、ボケーっと阿保みたいに上を見上げていた。横には電車が通っている。ここは空港内であるから、電車が通るわけはないのだが。

「ドーナツみたいな形をしているが、鉄分が多くてまずそうだ」とか、うんたら考えていた。この人工滝は、イスラエル出身のモシェ・サフディさんが設計したらしい。その場にいたら、僕は「バカにするな」と頭を叩かれていたのかもしれぬ。

気がついたら、アラブ系の方に周りを囲まれており、彼らは狭い通路で写真を撮っていた。僕は堂々とその間を通ってしまい、「Oh My got」とか何とか言われてしまった。その発言、傷つくから辞めてくれないかなあ。

気まずくなったので、ウナギのようにツルツル逃げて帰ってきた。

Jewelにあった人工滝

お目当ての”JEWEL”も見れたことだし、いよいよ手持ちの1万円紙幣をシンガポールドルに両替した。外に出るのが面倒くさかったので、またパソコンを開いてカタカタしていた。

「こんなところに来てまで、外に出るのを面倒くさがるアホもいたものだなあ」と自分自身に感心しながら、出国まで残り5時間を切ろうとしていたので、焦って空港から出ることにした。

「MRT」というシンガポールの地下鉄に乗ることを決める。

駅の窓口で「EZ リンクカード」という交通カードを購入して、鉄道に乗り込む。地下鉄の車内は横幅が広くて、揺れが少ない。車内もたいして混雑していないので、東京メトロなんかより、はるかに快適である。

インド系の女性が、僕の隣に座りたそうにして立っていた。しかし謎のティッシュが椅子に放置されており、座れそうになかった。

ボクは放置されていた、誰のかも分からぬ鼻水ティッシュを素手でつかんだ。そのまま ”Bay frot駅”のゴミ箱まで、鼻水ティッシュと一緒であった。

MRTの看板

”Bay front駅”で降りて地上へ出ると、有名なホテルである「マリーナ・ベイ・サンズ」の正面へ出ることができた。マリーナ・ベイ・サンズは、さきほどのチャンギ・シンガポール空港内にある「JEWEL」を設計した、イスラエル出身のモシェさんが設計したらしい。

シンガポールのランドマークは、この方の力によるものが大きいのだろう。モシェさん、すげえなあ。

マリーナ・ベイ・サンズ

マリーナベイサンズの周辺をうろうろしていると、「マリーナ湾」に出た。

マリーナ湾はシンガポールのヘンテコ建築や、デカい観覧車が一望できる場所である。おそらくシンガポール一番の観光スポットであろう。

シンガポール人たちはトレーニングウェアを着て、マリーナ湾の周辺を走っている。このマリーナ湾を1周ランニングするのが流行っているらしい。

マリーナ湾

「日も暮れてきたことだし、夜ごはんでも食べたいなあ」と思ってご飯屋さんを探していたのだが、シンガポール人はみんなで集まってご飯を食べている。そのような場所に一人ぼっちで足を踏み入れることが難しく、恥ずかしそうに俯きながら散歩するしか方法が無かった。

お腹を空かせてトボトボ散歩をしていると、超高層ビルが立ち並ぶ「ダウンタウンエリア」に来た。

仕事帰りのエリートサラリーマンたちが美女を連れて歩いている。その一方で、24時間営業のマクドナルドを覗いてみると、ホームレスのような風貌の方がチビチビ水を飲んでいた。

外へ出ると、360度監視カメラがこちらを覗いている。

マーライオン像

いよいよ本格的にお腹がすいてきた。早めにチャンギ空港へ戻って、空港ラウンジで夜食を食べることにした。

「JEWEL」の中には誰でも入れる有料ラウンジがあり、そこで「ラクサ」という麺料理を食べた。追加料金を支払い、綺麗なシャワーも借りることが出来た。

さっぱりとした気持ちでドイツに向かうことができた。

夜のJewel。滝はライトアップされている

現在は搭乗手続きも終わり、ドイツ:ミュンヘン行きの飛行機が出発するのを心待ちしている状態である。時間があるのでシンガポール編を1本書き上げようと思ったが、なんとか出来上がった。

改めて考えてみると、この国は観光客にとって、たいへん安全な国である。常に警察の目が行き届いており、観光地も綺麗に整備されている。この国は野心家にとっても、たいへん魅力的な国である。実力のあるものには相応の給与が支払われ、相応の将来が約束される。

しかしながら、この国では常に競争で勝ち続けなければならない。
負けることは許されない。

競争意識が弱いボクは、この国に住めない。



第2便:ドイツ

またもやシンガポール航空に乗り込み、ドイツのミュンヘン空港に到着した。同じ大学の友人が、空港まで迎えにきてくれた。

彼はドイツの民間企業で営業のインターンに参加しており、ITの基幹システムを販売している。

「売り上げはどうか」と聞くと、「まあまあだ」と回答した。

ミュンヘン中央駅

電車に乗り込み、空港からミュンヘン中央駅に着いた。その周辺の繁華街であるマリエン広場を散策した。

バイエルン王国時代の建築物をいくつか見学し、高校時代に日本史を選択したことを悔やんだ。ドイツの歴史は東フランク王国の歴史であり、神聖ローマ帝国の歴史でもあると知ったのは最近のことである。

世界史を知らない自分が恥ずかしくなったので、この世界旅行を行うにあたって、国ごとの歴史を調べた。「ドイツ」「トルコ」なんかは世界史の中心国家でもあるので、やんわりと歴史の輪郭が掴めたのは有意義だった。

ミュンヘン 旧庁舎
マリエン広場

時間帯も昼に近づいてきたので、「昼ご飯でも食べるか」となった。友人に連れられるままに広場へ行き、ホットドックのようなパンを頼んだ。彼は流暢なドイツ語で「チュリグン、ワンマル…」と会話をしながら注文をした。

ボクはオドオドしながら、後ろで注文が終わるのを待っていた。

マーケット

ドイツでは3日間滞在することになっており、その間は友人の家でお世話になる手筈となっていた。

昼食を食べた我々は、ふたたび”Sバーン”という電車に乗り込んだ。電車を降りたら徒歩1時間かけて彼の家へと向かった。

えらく田舎の方に家があったので、広大なトウモロコシ畑を横目に、必死に道を歩き続けた。道路には、水の1つも売ってないではないか。セブンイレブンはどこにあるのだ。ローソンかファミマでも良い。

トウモロコシ畑

彼の住む家はシェアハウスであり、同じ会社のインターン生(日本人学生)が数人住んでいた。

1つの部屋に、2人の学生が住んでいた。部屋の奥側に友人の部屋がある。

それであるから部屋に入るたびに、知らない人の前を経由しなければならない。「あ、どうもすんません」と何度もペコペコしながら泊まっていた。ボクは邪魔者になっているだろうなあ、と申し訳なく思った。

友人は「日本語教師のバイトがあるから、2時間くらい自由にしてて」と告げて、たちまちパソコンに向かった。それならば僕は近くを散策してみるかと思い、徒歩20分の場所にあるスーパーへと向かった。

ドイツの田舎

なんとも驚いたのだが、ドイツのレジは”ベルトコンベア式”であった。レジを通した商品は、横の台に放り投げられる。買い物客はせわしなくバックに商品を詰めていた。

大きめの飲料水とビール3缶、友人に頼まれた料理油を購入した。

この料理酒を買った

ドイツに着いた日の夜行バスで、そのままチェコに行くことが決まっていた。出国からほぼ休憩なしで夜行バスに乗り込む、ハードな計画である。

深夜24時にバスが出発する予定だったので、あまり友人宅でゆっくりする時間は無かった。早めに友人宅を出て、またもやミュンヘン中央駅へと向かった。この駅を見たのは、今日で3回目である。

中央駅に向かう途中で、友人のインターン先の会社へ立ち寄った。そこでは2人の女子大生が頭を抱えながら残業をしていた。

友人から「この2人が一緒にチェコへ行く人だよ」と紹介を受けた。

こんなに深夜まで仕事をして、なかなか大変なものだなあと感じた。さらに彼女らも、これから夜行バスでチェコに向かうのである。なかなかの体力自慢である。

しかしながら、僕も仕事をやりきるまで作業を続けてしまうタイプである。僅かに親近感を感じていた。

しかし、よく考えてみる。

目の前で仕事に励む彼女らは、日本のぬるま湯を捨てて、ドイツでITソフトの営業をしているような強者たちである。その戦闘力を考えると、僕はとても勝てる気がしない。

明日のチェコ旅行では、あまり自我を出さずに、彼女らに逆らわない様にしようとふらふら考えていた。


ここからは、チェコから帰宅した後の話である。友人の部屋の同居人と飲みに行った。「これからの日本の田舎には、可能性しかないのだ」という話で意気投合し、将来に関するビジョンを色々と聞いてみたくなったのだ。

彼は僕と同級生であり、「地方企業を大企業にするには」という内容で卒業論文を執筆しているらしい。

さらに彼は、ボクが2次選考で落とされた大手人材会社に内定をもらっていた。なんと羨ましい事であろうか。

彼の将来の夢は、人材会社を立ち上げて、田舎の人手不足を解消することらしい。彼はきっと僕よりも頭が良いのだろう。しかしながら、僕は劣等感のようなものを心の中に感じなかった。

彼と別れた今になって、ぽつぽつと思うことがある。「何物にもなれなかった22歳」との言葉が、最近では頭をよぎるようになったのだ。

彼は輝かしい未来に向かって、前を向いて進んでいた。まっすぐにビジョンを描いて、着実に歩を進めている。それに対して、僕は今まで何をして生きて来たのだろうか。

学生の身分を取り外した時に、自分を何者だと紹介できるだろうか。
いまはまだ、何物にもなれていない。

ボクが22歳になるまで、あと2か月。

「君達には無限の可能性があるのです」と言われて育ってきた僕が、何物にもなれなくなるまで、あと2か月。

その間に、どこかで答えが見つけ出せると良いのだが。
未だ答えを出せずにいる。


第3便:チェコ

あたりには暗雲が立ち込めていた。

われわれ5名は、深夜24時30分発のバスに乗り込んだ。ミュンヘンから6時間かけて、ドイツの隣国である「チェコ」へ向かうわけである。

プラハの朝

メンバーは以下である。

①友人
②僕
③友人の働く会社のインターン生:3名

チェコ旅行メンバー

この話を持ち掛けられた当初から分かりきっていたことだが、僕は圧倒的にアウェイな状態である。さらに男女比は2:3。

女性のテンポの速い会話にはついていけない僕にとって、かなりハードな集団行動であった。

しかしながら、皆様にはとても気を使っていただいたこともあって楽しく旅をすることが出来た。あまり喋らない僕に懸命に話しかけて頂き、誠にありがとうございました。

ありがとうございました😭

チェコの首都である「プラハ」に到着した。人口130万人の首都はそれほど喧騒もなく、町は静かに暮らしていた。

帰りも夜行バスで帰国する予定となっていたため、朝から晩までたっぷりと観光の時間がとれた。

バスターミナルに到着した我々は、およそ1時間かけてプラハ中央駅まで向かい、駅構内の喫茶店で朝食を食べた。

プラハ中央駅

喫茶店の店員さんの接客は不愛想であり、ボクはこういう海外の不愛想な接客が好きである。

「お金のために働くってなら、こんなもんでいいんだよな」
「これで充分なんだよ」

という謎の安心感が感じられるのである。

喫茶店では、パンと珈琲をいただいた。そこから徒歩で1時間かけて、”プラハ旧市街”という有名な観光地へと向かった。

その道中で、マリファナ(大麻)の販売店が軒を連ねていた。

どうやら一定数以上の興奮剤(THC:テトラ ヒドロ カンナビノール)が含まれていなければ、この国では大麻が合法らしい。

大麻ショップ

大麻クッキーやら、大麻ドリンクやらがコンビニ感覚で売っているので、ついつい興味本位で買ってしまいそうになる。僕はこれからも日本で暮らしてきたいので、あいにくではあるが購入を控えておいた。

道に座っている男性から、なにやら甘い香りがした。

タバコのようなものを吸っていたので、「香り付けしたタバコもあるのだな」と考えていたが、大麻の香りをごまかすための香り付けだと分かった。

また、道中ではユダヤ教の教会である「シナゴーグ」を見た。

プラハにはユダヤ教徒が多く居住しているらしい。13世紀には、中央ヨーロッパ最大のゲットー(ユダヤ人居住区)があったとして知られている。

シナゴーグ

プラハ旧市街の路地裏に、「大人のオモチャ博物館」なるものがあった。

歴史的な大人のオモチャが多数展示されていると知り、僕は多大なる興味が湧いた。皆をそれとなく誘って近づいてみたが、あいにく休館日であった。

博物館の隣にあったキャンディーショップ

旧市街をひととおり散策した後は、路面電車に乗り込んだ。
そのまま「フランツ・カフカ博物館」へと向かった。

フランツ・カフカ博物館

フランツ・カフカ。 ”ある日ベットから起きたら、自分が大きな虫になっていた” という小説を書いていた人物である。

気分が落ち込んでいるときに読むと親近感の湧く小説家であるが、気分が高揚しているときに読むと嫌な気持ちになる。

というのが、僕のカフカに対するイメージであった。


カフカ博物館を散策しているとお昼になったので、居酒屋に入った。

ヨーロッパでは屋外でお酒を飲むことが何よりも贅沢らしく、我々も類をみずに屋外の机へと案内された。

しかしながら僕は日本人であるから、「屋内のすみっコでチビチビ飲む方が性に似合っているのだがなあ」とブツブツ思っていた。

気が弱い僕は、店員さんに笑顔でお礼を言った。

チェコビール

本場のチェコビールを、ソーゼージやハムと一緒に呑んだ。飲んでも飲んでも、大きなジョッキに注がれた小麦が無くならない。

僕は酒が弱い訳ではなかったので、これをあまりにも美味しく飲みほした。

チェコビールは、ビールの美味しさを知らない僕に対して初めて優しく寄り添ってくれたのである。このビールが無ければ、僕は一生ビール嫌いのまま人生を終えたのだろう。

偉大なる国、チェコ共和国よ。

チェコビール…

お酒も飲んで気分も良くなり、「ジョン・レノンの壁」なる場所へと向かった。市民の皆がこの壁に落書きをしたらしく、とくにジョンレノン本人との関係性は無いらしい。

ジョン・レノンの壁

かつてソ連の衛星国であったチェコは、共産主義国であった。反政府主義の人々は「自由と平和」を求めて、ジョンレノンの歌う「Imagine」の歌詞を壁に書き尽くしたという。

「Nothing to kill or die for And no religion too」
「殺すことも死ぬ理由もない。宗教もない」

このように歌ったジョンレノンの歌声がスピーカーから流れており、平和を願いながら壁を眺める。

現在はウクライナ戦争の真っただ中であり、アフガニスタンやイラク、シリアやイエメンにおいても紛争が起こっている。

戦争原因は「代理戦争」や「政治不信」「民族や宗教の違い」によるものも多く、ジョンレノンはそのような世の中を憂いて「世界が1つの国になれば」と願ったわけである。

ボクも非常にクサイ行動ではあるが、「世界が戦争もなく、平和な世の中でありますように」と願った。

皮肉にも10月7日、まさにこの日である。
イスラエル軍によるガザ地区への侵攻がはじまった。



1人だけ別行動をしていたインターン生の子が、チェコ人の女性を連れて戻ってきた。「彼女はイギリス留学時代の友達だ」と言うので、あまりのハイスペックさに仰天した。

チェコ人と対面するのは初めての経験である。僕はみるみるうちに口が堅くなり、その女性と話すことは無かった。

「夏井~!しっかりしろよ~!」と、本日初めて話したばかりのインターン生に言われてしまう始末である。しかしボクは気が使えない人間であるので、それを大して気にすることもなく、フラフラと楽しく観光していた。

プラハの風景
プラハ城前

空もいくらか暮れて来た。

友人が予約してくれたクルーズ船へと向かう。船の屋上にあった長椅子に腰かけて、河川敷に沿わせていた船は汽笛もほどほどに出港した。

夕刻のプラハ

オレンジ色に照らされたプラハ城を遠くに眺める。カップルたちは物思いにふけった雰囲気で、互いに肩を寄せ合っている。

そのさなか、僕は川上のあまりの寒さにお腹を壊していた。

「はやく岸につけばいいのになあ」なんて口走った暁には、僕の人権など消えてなくなるだろう。それであるから「綺麗だねえ」なんて心にもない言葉をいけしゃあしゃあと口走る。

夜飯には、温かいスープを飲もうと決めた。

夕暮れのプラハ城

船は岸につき、いよいよ夜ごはんである。

お酒を飲み、ピザを食べ、今日の出会いを祝った。この時間帯になれば気心も知れて、長年の友人のように5人で語り合った。

とくに恋愛話なんかは、大いに盛況であった。



いよいよ帰国の時間となった。
バスステーションで、夜行バスの到着を待っていた。

23時発のバスを予約していたはずが、時刻はとうに23時15分となっていた。

バスが来ない。

「Flix bus」というドイツに本社を構えるバス会社である。Flix Busは良い評判しか聞かないために信頼しきっていたのだが、結果的にはおよそ90分の遅延であった。

「90分なら余裕で待つこともできるだろう」と思うただろうか。

どうやらそうもいかないわけである。時刻は深夜24時を回り、バスターミナルが閉館の時間となった。我々はターミナルの外に追い出されてしまい、極寒の秋風が吹く中でバスを待たざるを得なかった。

チェコの気候は、北海道と同じくらいの冷え込みである。

僕はせこせこココアを買いに回って、みんなの腹が冷えない様に心掛けた。

なんとかバスは到着して、バス停では拍手が起こった。
90分の遅延で、運転手からは1つの謝罪も無し。

この状況にキレていたのは、我々日本人だけであった。他国では、これが普通なのだ。日本のサービスが素晴らしすぎるだけなのだ。

これからは日常に感謝して生きなければなるまい。


第4便:トルコ

いよいよドイツ出国の日となった。
みんなに別れの挨拶を交わした後、ふたたびミュンヘン空港へと向かった。

僕は非常に怠惰な性格だし、たいして金も持っていない。二度とドイツに来ることもないのではなかろうか。そのような悲しさを抱えながら、4日前にも乗車した”Sバーン”という電車に揺られていた。

同じ大学の友人も、トルコからジョージアまで一緒に旅行することになっていた。2人で肩を並べて空港に向かった。

目指すはイスタンブール。この地名を聞くと、庄野真代の「飛んでイスタンブール」を思いつく方も多いのではないだろうか。「イスタンブールに飛んで行ってしまえば、愛しいあなたすらも忘れてしまえるのだろう」。それほどに情緒深い美しい町が、トルコ最大の都市”イスタンブール”である。

「ペガサス航空」といった、日本では危機馴染みのない飛行機に乗り込んだ。ミュンヘン空港で口にしたチョコレートが妙に胃に残ってしまい、ひどい吐き気の中での搭乗となってしまった。

胃腸に不安を抱える僕の気持ちとは裏腹に、飛行機はガタガタとひどい音の中で上昇していく。トルコ系の陽気さと相まって、「ごめんね、飛行機の調子が悪いので、落下します!」という楽観的な放送が聞こえたらどうしようか、なんて心配しながらのフライトである。

およそ3時間の恐怖と吐き気に耐え忍びながら、なんとか無事に「サビハ・ギョクチェン空港」へと到着した。ここからおよそ3日間は、イスタンブールでの滞在となる。

すぐに「イスタンブールカード」という交通系カードを購入し、地下鉄に乗り込んだ。およそ1時間は地下鉄に揺られて、その後の1時間はバスに揺られていた。

地下鉄にはスムーズに乗り込めたが、バスにはかなり手間がかかった。Googleマップに記載されているバスが、一向に来ないのである。どうやらトルコのバスは感覚で乗り込むのが当たり前らしく、「だいたい北に向かっているから、多分これだろう」の感覚で乗り込むしかない。

結局、およそ3時間かけて宿泊先の周辺までたどり着いた。しかしながら、肝心のホテルが見つからない。ひたすらに周りをグルグルしていた。

イスタンブールの中心街に立地しているその宿泊先は、スラムの中にあった。その道路は廃墟そのものであり、「なにかしらの爆撃があった後ではないだろうか」というほどにガレキ類が散乱していた。

不安の中で夜道を歩いていると、「バン、バン」と大きな銃声が聞こえた。我々はひどい泣き顔の中で、遠い日本の母を思い出していた。

そのまま必死に歩き続けていると、優しそうなホストが出迎えに来てくれた。我々は彼の笑顔を見て安心した。Airbnbで予約をしたのだが、登録されているプロフィール写真とまるで同じ笑顔だったのである。

彼は入口にかかっていた大きな錠をはずして、鉄格子のドアを開いた。「ギイ、ギイイ」という音を出しながら開くドアを聞き、我々は再び日本で暮らす母を思い出していた。

「君たちはどこから来たんだ」とホストに聞かれ、「日本です」と答えた。

「日本か。私は日本が大好きだ。なによりも、日本の女性が好きだ。彼女たちは、とても頭がいい。知り合いがいれば紹介してほしい」

そんなことを話していた。知り合いを紹介したとて、わざわざイスタンブールまで出向いてくれるような知り合いはいないだろう。それであるから、「ハハハ、Me too」と答えながらその場をやり過ごしていた。

ホテルには屋上があり、ホストや宿泊者のフランス人男性と共にご飯を食べた。随分と流ちょうな英語を話すので、僕はたちまち会話に置いて行かれた。

「さっき買ったパン、食べますか」と聞くと
「いらない」と言われた。

「さきほど銃声が聞こえたが、ここは治安が悪いですか」と聞いてみた。
「おそらく子供が花火をしているんだろう。治安はいいよ」と教えてもらったので、我々はホッと心をなでおろした。

長旅で疲れた我々は、一通りお互いの不満を口にして、しっかりと喧嘩をしながら寝た。客室にはロフトベットがあり、友人はロフトで寝ていた。僕は下のソファーベットで睡眠をとった。


起きたのは、午前10時頃であった。せっかくトルコまで来たというのに、しっかり10時間睡眠をとってしまったのは不覚である。

昨日の夜の歩いたスラム街は、日差しの中で見ると少し景色が変わってみてた。この街にはネコが多い。どこもかしこも美人なネコ様がたくさんおり、ピンと背筋を伸ばしている。

どうやらトルコは、犬と猫に優しい国らしい。特にイスタンブールは「猫の都」とも呼ばれており、野良猫も毛並みをそろえてのびのび暮らしている。

昨日のスラム街は、日差しの中では猫の都であった。

もう昼食の時間帯であったので、トルコ料理てんに入った。人生で初めてのトルコ料理に緊張していたが、乾燥した肉料理が出てきた。

イスラム系の国であるから、「豚」「アルコール」「血液」「宗教上の適切な処理が施されていない肉」の4つはどこにも見受けられなかった。我々が食べた肉も、案の定「羊肉」である。

「なんだかしょっぱい味だねえ」とか文句を言いながら食べ始めたが、途中から癖になる味わいで、おいしく感じ始めた。

それから市街を練り歩いて、「ガラタ塔」という大きな塔の前に出た。

「アッラーは偉大なり、アッラーのほかに神は無し…」

なんとも語気の強い言葉であるなあ。僕はそのように考えながら、パンフレットをブツブツ独り言を言いながら読み進めた。

「これを一度唱えてみれば、あなたも立派なイスラム教徒です」との記述があった。なにっ、それならば先ほど僕はイスラム教徒になったわけか。これは友人にも試してみなければ。ロフトベットで横になっている友人を呼びかけ、このアラビア語を復唱してみろ、と言ってみた。

友人は素直に、「アッラーフ・アクバル、ラー・イラーハ・イラーッラー…」と復唱した。

「やーい、お前今日からイスラム教な」と馬鹿にしたら、「お前も1度唱えたんだからイスラム教だ」と言われてしまった。明日から、我々は毎日礼拝をしなければならなくなった。

僕は「1抜けた」といってイスラム教から改宗した。一瞬だけイスラム教徒になってしまった。決まりがいろいろと多そうだから、僕は体験版くらいで充分である。



「おのれ、パキスタン!」友人の腹は怒りに震えていた。彼はたちまちトイレに駆け込んでは、排便のオーケストラを開催した。彼の優美な音楽を聴きながら、僕は少し涙した。

第5便:ジョージア

「Russia is Terrorist」と書かれた壁面には、ロシアに対する恨みつらみが延々と描かれていた。ジョージア国旗の隣にはEUの国旗が掲げられており、「我々はヨーロッパだ」と強く信じていることが読み取れた。

第6便:インド

ニューデリーは、物乞いであふれていた。ボクが普段想像しているような、「生活に困窮している」だけの物乞いではない。そこで目にしたのは、「物乞いビジネス」である。

第7便:香港

香港で最も宿泊料金の安いと言われる、「チョンキンマンション」へ向かった。この施設は大きな複合ビルであり、様々な商店やドミトリーが軒を連ねている。

香港は世界で1番物価の高い国だと言われており、僕の宿泊したドミトリーでも一泊6,000円であった。学生感覚であるが、思っていたよりも高い。

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