御茶ノ水の小さな江戸前。

先月、月一度のメンタルクリニックの診察に御茶ノ水に出かけた。

診察は午後の2時くらいなので、駅に着いたら、診察前に昼食をとることにしている。前は駅から近い中華料理屋で、美味しいタンメンや、野菜炒めなど、ボリュームもあり、よく頂いていたが、そこばかりでは、飽きてしまうので、駅前通りに面している、本当に間口の狭い路面店の立ち食い寿司にも、たまに暖簾をくぐって入ることにしていた。

お店の外観は本当にこざっぱりとした、というか、インスタントな印象を受けるもので、ただ回転寿司ではないのが、なんとなくありがたかったので、数ヶ月に一度訪れて、寿司の握りを楽しまさせて頂いていた。そして先月も、というかここ数ヶ月連続で毎月、この立ち食い寿司のお店にランチをいただくことが楽しみになっていて、少し慣れた感じで暖簾をくぐった。

ここのランチは10巻握り1000円で、ネタが毎回変わった。そのバラエティさも素晴らしいのだけれど、カウンター越しに貼ってあるメニューがすごい。40種類はあるかと思われる魚が、「〇〇産〜」と小さい札にびっしりと手書きで書き込まれており、そのどれもがとても安価なのだ。

いつもは言葉を交わさない板前さんに

「ここのメニューは全て揃っているのですか?」

と聞いてみた。

そうすると

「だいたいはあるね」

とおしゃっていた。旬のものもそうでないものもあったのか、あるいは、季節によってメニューを定期的に入れ替えているのかは分からないが、そのバリエーションの豊富さは、この小さなカウンターの寿司屋のそれとは思えない。聞くと仕入れにも毎日勝どきに行っているという。そして午前の11時半までのランチの分を仕込み、午後3時の閉店で、やっと休めるのかと思えば、また夜の部の仕込みをするという。

仕入れた魚の管理があの小さな厨房できちんとされていることにも驚いた。そもそも食材をストックするスペースがほとんどない。この小さいスペースの寿司屋をひとりで回すには、相当のコツというか修練が必要だったはずだ。

「オープンしてから何年経つのですか?」

と、聞くと、

「だいたい40年くらい」

とおっしゃっていた。その時も、シンプルで回転すし屋のような内装、外装なので、とても驚いた。それは6年前に建物を立て直したのだという。あと、このワンオペレーションを確立するためには、それ相当の年月が必要だっただろうと、納得もしてしまった。

午後の部の仕込みも大変そうだと思ったが、話を聞けは当たり前で、仕入れた魚は、切り身ではなく、朝仕入れてから、自分で捌かないといけないのだから、寿司屋、特に個人経営のお店の開店までの下準備が、とても大変だということを、改めて思い知らされた。

実際のランチの10巻握り、今回は初めて、出された寿司ネタが何か聞いてからいただいた。

さわら、マグロ、中とろ、ぶり、イカ、たこ、軍艦巻きでは、やはり鮮度の良さそうな、うにだったり、いくらだったりが、一貫ずつ全て違ったネタで揃えられていた。(カワハギの塗り、のような、また珍しいネタの時もあったから驚き)

そのネタを舌に乗せた「冷たさ」が本当に適温で、また食材の食感も瑞々しく、しゃり、これも手が小さな寿司職人が紡ぎ出すのに適度な大きさで、本当に完成された一品のランチだった。

板前さんが、お店に興味を持ってくれたのが嬉しかったのか、話を始めた。

「この辺はラーメン屋ばかりで、みんな、暑くても寒くてもラーメンを食べるよね」

「他の飲食店をやっていても先代がなくなって代替わりしたら、みんなラーメン屋になってしまって」

そう言われれると、自分もそうで、知らない街に行ったら、美味しいラーメン屋がないか、まず探すようなところがある。それが、この板前さんには残念だと感じるのだろう。確かにお寿司屋であれば、仕入れた食材で季節感を味わうことができ、寒ければ、適宜常備してある日本酒や、限定の魚汁をいただくのも一興だ。そういう江戸前すしの嗜み方が味わえるお店が皆無だと、板前さんも職人柄感じるのだろう。

あと、江戸前といえば、正式なことはよく知らないが、大森海岸とか、東京湾で獲れる穴子とか、あさり、しじみ、海苔などの食材なのだろうが、この御茶ノ水の小さな寿司屋では、そういうことをうんちくとして一切語らないのも好感がもてた。お店もそれを「売り」にはしていない。でも、ここが、このお店が、「江戸前」と言いたくなってしまう魅力があった。

御茶ノ水には、駅前でなければ、たぶん他にも寿司屋があるのだろう。それを間口1メートルもないうなぎの寝床のような店内の、でも、その暖簾をくぐらないと分からない世界が、この小さな寿司屋にはあった。

店名は「こえど」その通りという名前。小さなお店、小さな板前、小さな握り、そのどれもが、本当にコンセプトとして、あの板前さんが持っていたのであれば、このお店の勝算は大きい。仮に、経営が厳しくなって店を閉めたり、代替わりでラーメン屋になってしまう前に、通院の時だけでもいいから、通わなければいけない、そんな想いを抱いて、食事を済ませお店を出た。すぐとなりの土地では、商業ビルだろうか、再開発をしている最中の工事の騒音。こういう波に飲み込まれないでほしいな、と少し嘆息して、いつもの病院に向かった。

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