見出し画像

〇〇ではなく〇〇学として取り扱う試みの入口の入口-分かっていそうなこと、を「あえて」見える化を試みる意味について-

昨日、とある相談を受けて、(ごくごく簡単に)データを分析した結果をフィードバックしたときのことである。データから何が言えるのか、そこからどういうことができそうか、ということを整理して、1時間程度議論をさせてもらう時間を得た。

「多分こうかも、ああかも、と思っていたことがやっぱりそうかと思った。」
という意見や
「でも、印象と違う部分もあった」
「もやもやしていたところが、晴れた気がする」

ということを率直に感想を述べられた。ふむふむ、研究する、分析することの価値とはこういうことか、ということを改めて理解した。普段の実務としての仕事に加えて、幅が広がったというか、深まった気が勝手にした。(まだまだ甘いけど)

そんな時間を終えた後、

〇〇と〇〇学は違う。

というようなことを学んだことと勝手につながった。〇〇は誰でも話せるけど〇〇学はそうではないというような話だった。

例えば、私は教育者なので、「キャリア」を例にすると、キャリアについては、(おそらく)誰でも語れる。なぜなら、すべての人が経験しているし、だからこそ大なり小なり自分の視点で語ることは自由だから。一方で、「キャリア学」という視点で語るには、誰でもできるわけではない。というのは、多くの先人が、知見を言語化したり、分析したり、考察したりの積み重ねが多く蓄積しており、その中で可能な限り、実践知や経験知を超えたものも含めてその分野の言葉も使いながら言葉にすることができることが求められるからである。(注:実践知や経験知が重要ではないというわけではない。ただし、それだけでは語りきらないものがあると思っている)

また、枠組みに当てはめて、事象を見ること、またそこから何が分かるか提示し、議論を深めること、これも、とても大事なことであると認識したところである。自由対話の面白さはあるものの、一方で、その対話に緩急をつける、または、議論を集中させるためにも枠組みを作ることも効果的な気がする。しかし、あまりにもその枠組ばかりで話をし始めると逆に見えないこともあるだろうし、、、。(多分、相談相手が多くいる人は、うまく使い分けたり、各種専門家を同席してもらったりということができるので良いのだろう。そうではない場合は、うーん、また考えていかなければならない事が増えた)

いずれにせよ、私自身、相談を受けたり、新しいものを作ったりということを生業にしているので、もっともっと学ばなければならない。まだまだ成長しなければと今回の件を通して改めて思ったところでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?