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なぜ、医学生は学年が進むと総診の志望度が下がるのか


※追記

このnoteは別に総診をネガキャンしているわけではありません。
目的は「大病院での座学〜実習を通してなぜ僕の総診の志望度が下がったのか」の内省です。

背景

多くの医学生は入学時、

  • 総合〇〇に興味があります!

  • 将来は総合〇〇医になりたいです!

  • 総合〇〇医として、地域医療に貢献したいです!

と目をキラキラさせながら言っている。

しかし、学年が進めば進むほど、臨床の現場に出れば出るほど、彼らの目から輝きが失われる。そしていつしか、彼らの口からは総合〇〇医になりたいという言葉は出なくなる。そして臓器専門医を志していく。
実際、周りの医学生を観察してもそうだと思える。

この傾向は統計を見ても明らかである。日本に19ある専門医のうち、総合〇〇医の専門医を取る医師の数は最下位をうろついていることが多い。

専門医として新しい部類であることから認知が低いことも考えられる。
しかし、社会的にもドラマや漫画などで総合〇〇が取り上げられることは多い。また、主観的だが医学部低学年における総合〇〇の人気を鑑みても、もう少し多くても良いように思える。

かくいう僕も、総合〇〇は一つの選択肢である。

しかし、今でも選択肢の一つであるものの、大病院での臨床実習を重ねるにつれ、正直なところその比率は下がっていっている。
志望比率は下がったと言いつつも、総合〇〇が嫌いになったのではない。
個人的には総合〇〇もとい、プライマリ〇・〇は日本の医療になくてはならないと感じている。医療費が下がるといった客観的なエビデンスは多くあるし、日本の人口動態的にも社会的要請的にも、もっと増えないといけないと思っている。

ではなぜ、自分の中で総合〇〇の志望度が下がってきたのか?

単純に考えると臨床実習において他の科をローテーションすることで、他の科に興味が移ってしまったことや、接触頻度が下がってしまったことなどが挙げられる。
でも、そんなに単純化できるものではないとも思う。

そこで、自分自身を振り返り、

「なぜ、医学生は学年が進むとともに総合〇〇の志望比率が下がるのか。」

というテーマで書いていこうと思った。
ちょっと難しそうな話題になるので、以下の3つの観点をサッカーと関連させながら考えてみることにする。

  • 医学部の座学で鍛えられる瞬発力

  • ペナルティエリアの18人

  • 美しすぎる哲学

なお、本来こういうことを考えるためには木も見て森も見るという視点が重要であると思う。しかし、医学生という立場上、木しか見れないので偏った考えになっていると思うのですがそこはご容赦ください。


医学部の座学で鍛えられる瞬発力

今は昔。受験を振り返ってみると、

受験とはどれだけ“中期記憶”に知識をぶち込めるかを“競う”ゲーム

と定義できる。
そのゲームに勝利し、医学部に入るとルールが少し変わる。

今度のルールは

医学部の座学とはどれだけ“短期記憶”に知識をぶち込めるかのゲーム

に変わる。
変更点は以下の二つ。

  • 知識をぶちこむ場所が短期記憶になったこと。

  • 競う必要がなくなったこと。

大学受験に関して、古典・漢文はもちろんのこと、数学、物理に至っては学問としては完成されており、30年前の受験生と今の受験生で記憶すべき知識量はそれほど変わっていないと思う。
しかし、大学の先生たちも「昔よりも学ぶことが増えて君たち大変や」と仰るように、“先人たちの努力”によって医学の知識は年々増えていっている

一方で、受験のように90点近く取らなくても60点でもクリアできることから

  • コスパ良く

  • タイパ良く

知識を記憶にぶち込めるかがゲームクリアに重要になってくる。

このゲームはいろんなコースがある短距離走に似ているのかもしれない。
たとえば、消化器のコースを走ったら、次は循環器のコース、その次は脳神経のコースといった感じで、あらゆるコースを走らされる。各コースは必要とされる筋肉(知識)が異なる。そのため、短期間でそのコースに応じた筋肉を鍛える必要がある。

そして、多くの医学部は毎週テストというネバーエンディングストーリーである。
よっぽど意識して勉強することがない限り、短期記憶を司どる海馬に知識をぶち込み、テストでは海馬から知識を出力し、テストが終わると同時に忘却曲線より早く忘れる。
そのため、脳神経の知識を海馬に押し込んでいるときは消化器で使った知識は全く使っていない。なので、消化器のことは綺麗さっぱり忘れているのが往々にしてある。

まとめると、医学部の座学は短期記憶の瞬発力をテストするものである。
このゲームの中では、与えられた条件や範囲の中で早くインプットし、早くアウトプットする瞬発力は鍛えられる。

これをサッカーで例えると、

  • 問題文という一見複雑に見えても“丁寧”なパスを受け

  • 5つくらいの選択肢からすぐに”治療法”というシュート

  • 正解”というゴールにぶちこむ

という瞬発力をひたすら鍛えるようなものである。現場と違って問題文は必ず答えがあるようにつくられている。そのため、正解というゴールを決めさえすれば座学は無事くぐり抜けられる。

ペナルティエリアの18人

座学において決められたゴールにシュートをぶちこむという瞬発力を鍛えられた医学生はいよいよ実践の場にでる。それが臨床実習である。

臨床実習は消化器→循環器→脳神経といった感じで、臓器別に分かれた診療科をそれぞれローテートする。診療科を大まかに分けると19個あり、さらに臓器別に細分化(いわゆるサブスペ)すればもっとある。その診療科ごとに特色があり、このタイミングで自分に合った進路をぼんやりとでも決めていく人が多い気がする。

臨床実習における主なルールは大きく分けて

  • 出席したか

  • レポートを書いたか
    だけである

朝早い、オペで立ちっぱなしといった肉体的なしんどさはあると思うが、昔と比べ今は良い時代になったらしく精神的なしんどさはない(たぶん)。
たまに知識をテストされることはあるものの、患者さんに悪態をつく、先生と喧嘩するなどよっぽどのことがない限り、実習に落ちたり留年するといったことはない。そのため、大学受験や座学をサバイブしてきた医学生にとっては、臨床実習は実践の場と言いつつもヌルゲーである。(たぶん)

座学でひたすらシュートを打つ練習をしてきた医学生は、臨床実習という実践の場でシュート以外にもパスドリブルという方法を学ぶ。
ここで、サッカーの用語と医師の手段を擦り合わせをこのようにする。

パス=カンファレンス、コンサル
ドリブル=検査、診療
シュート=治療(手術や投薬)
ゴール=退院

当たり前であるが、サッカーではゴールの前でシュートを打つ方がゴールになる可能性が高い。そのため、病院側や医師は患者さんの退院というゴールのために、パスやドリブルを使いながらゴール前までに向かってから治療というシュートを打つことが求められる。

医療ドラマとかでよく見る名医がたった一人で患者さんを治すといったスーパーゴールは、あくまでも医療ドラマの世界であり、現実は地道なパス交換、ドリブルをしてようやくシュートに辿り着くものである。サッカーでもなかなか点が入らないように、ようやく打てたシュートがゴールに結びつかない。ということも現実には多くある。

大病院における診療科は治療というシュートが打ちやすい位置(ペナルティエリア)にポジションをとっている。大病院は基本的に他の病院から紹介という形をとっているので、患者さんは病名がついて治療のためだけに入院してくることや、病気のアタリがなんとなくついて受診されることが多い。
そのため、大病院においては主訴が不明な患者さんに対して、めちゃくちゃ時間をかけてパス交換したりドリブルしてゴールまで迫ってようやくシュート!ということはあまりない。

しかし、総合〇〇は別。総合〇〇科を除く18の診療科はペナルティエリア内のシュートが打ちやすいポジションを陣取っていているが、総合〇〇科はゴールからけっこう遠いところにポジションをとっている。さらに、

  • 必殺ステロイド軟膏!

  • 90歳へのTAVI!

  • 毎朝の打鍵機!

といった科独自の必殺技は他の診療科と比べてあまり持ち合わせていない。

そのため、シュートを打つという瞬発力を鍛えられた医学生たちは、地味なドリブル、パス、挙げ句の果てにはシュートすら打てない状況に気落ちすることがある。
「地味な基礎練ばっかり。なんでシュートを打たせてくれないんだよ!」というスポ根漫画によくありがちなボヤキをいいながら。

もちろん、ゴールから遠いところで時間をかけて多職種とパス、ドリブルをしながら患者にとっての最適解を探していくことが総合〇〇の良いところの一つであり、それが強みでもあると思う。

しかし残念ながら、大病院の評価システム(ひいては日本の医療制度)はサッカーのフォワードのようにどれだけシュートを打てたか、ひいてはゴール数をあげるかが指標になっている。そのため、ディフェンダーもしくはキーパーのようなゴールから遠いところでいぶし銀を発揮してもあまり評価はされない。

これもシュートというインスタ映えする結果に、医学生が引き寄せられてしまう原因であるとも思える。


美しすぎる哲学

強いサッカークラブには哲学があることが多い。今はどうか知らないが、FCバルセロナにはポジショニングという哲学がある。

個人的な意見であるが。総合〇〇、もといプライマリ〇ケ〇は他の診療科と比べて持っている哲学が多いと思う。

  • ミクロ的視点では、「患者との対話」「多角的に患者さんを診る」

  • マクロ的視点では、「人も地域もまるごと診る」、「患者中心の医療」

  • メタ的視点では、「SDH」、「プラネタリーヘルス」

哲学を持つと言うこと自体は悪くないと思う。
ただし、その辺の草サッカーチームがバルセロナと同じようにサッカー哲学を掲げていても無味乾燥なイメージを与えるように、哲学を持つからにはそれなりの歴史や深みを持っていないと言葉が宙に浮いてしまうこともあり得る。

そのため、僕のような美しい哲学にホイホイとつられやすい性格の一般ピーポーは言葉自体に興味を持って関わろうとするものの、時間が経つとともに「それっていったいなんだっけ?」と思ってしまうものである。

ただし、総合〇〇の哲学を批判しているわけではない。
例えば、Moira Stewartらが著した「患者中心の医療の方法」という本は、患者中心の医療という概念をモデル化してさらに方法論まで落とし込んだ名著と思うし、医学生にとっては病みえと同じくらい必読の書だと考えている。
また、日本の人口動態や地域医療の現状を鑑みると、臓器別専門医よりも「人も地域もまるごと診れる」総合〇〇医の方が必要とされている。さらに実際に地域や田舎に足を向けてみるとその需要は如実に見て取れる。

しかし、最近流行りのバズワードばかりを並べられると、外からはよくわからん。という印象を持たれてしまうこともあり得る。

例えば、「誰一人取り残さないプライマリ〇ケ〇」。
これはSDGsの目標であり、美しい哲学である。
だが、お経のように「誰一人取り残さない!」と声高に叫べば実現されるものではなく、素晴らしい名医が誰かひとりいれば実現されるものではないと思う。

この美しい哲学を実現させるためには、
様々な人たちと、時には医療という垣根をこえてパスを交換し
ぬかるみの中を地道にドリブルして進み
3歩進んで2歩下がるを繰り返し
時には別の科に横からタックルされ
そして、ペナルティエリアに来たと思ったらハーフラインだったという現実に絶望しながら進む必要があるのではと思う。

残念ながら、座学を通して瞬発力を鍛えた医学生にとっては、そのような持久力を試される現実に興味を持つ人は多数派ではないかもしれない。

さらに、それに拍車をかけるように総合〇〇医や多職種そして患者家族と一緒になって、時間をかけてパスやドリブルをして、なんとかハーフラインまで来ました。という努力は社会的にも保険制度上でもあまり評価されないシステムになっている。

シンプルにいうと、金にならんのである。

どれだけドリブルしても、どれだけパスしても、結局はゴールにつながらなければお金が払われんのである。

これは国やシステムが悪いということではない。残念ながら地道なパスやドリブルの成果は客観的に目に見えたり、簡単に数値化して測定できるものではない。そして、病気だけでなく家庭や社会的背景などの複雑な因子を抱えた患者さんのゴールを、快刀乱麻の若く一意的に定義するのはすごく難しいからであると考えている。

そうした複雑なものを複雑なまま抱え、全体を見て時間をかけて比較検討するからこそできる重みづけが重要だと思う。だけど、一医学生の立場として座学で瞬発力を鍛え、かっこいいシュートを見せられるとどうもそっちに引き寄せられてしまうのは否めない。

結語

周りを見ても自分を見ても学年が進むごとに、総合〇〇医の人気が下がってしまう実感からその理由を考えてみた。

個人的には、
1.シュート練習しかしない座学
2.臓器別の科をローテする実習
3.総合〇〇の哲学。

これらが相まって人気が下がってしまうのではないかと考えた。

本来こういうことを考えるためには、木も見て森も見るという視点が重要であると思うが、医学生という立場上、木しか見れないので偏った考えになっていると思う。
そのため、ここに示されたものはあくまでもわたし個人的感想であり、所属する組織を代表するものではありません。

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