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心配の中身は

出張で遠くまで来ています。
その間、当然ですが自宅を留守にすることになります。
明日には帰宅する予定ですが、やはり少しでも家族と離れていると寂しい気持がするものです。

とは言って1人になる時間は貴重です。
なので出張をしっかり楽しんでいる自分もいます。
ここは前向きに出張を楽しみたいと思っています。

自宅を留守にすると中には留守にしている相手を心配する人もいます。
家族が仕事で遠くに行ってしまい、その身を案じて心配しているのでしょう。
気持はわかります。
私も妻がちょっと遠くへ1人で出かけるとなると、心配な気持になりますから。

たしかに心配することは誰かを思いやっている気持なのかもしれません。
心配する相手の無事を祈っているのかもしれません。
しかし本当にそうでしょうか?
自分が考えている心配の中身は本当に相手のことを思いやってのことでしょうか?

たとえば船で釣りに出かけるとしましょう。
船で釣りに出かけるということを家族に伝えます。
すると家族は海に落ちる可能性があって危険だからやめておけと言います。

もう1つ、たとえば1人でバイクでツーリングに行こうと計画します。
そのことを家族に伝えます。
すると家族は1人で行くと事故にあった時に大変だ。
だからバイクでツーリングに出かけるときは、必ず誰かと一緒に行けと言います。

2つの例をあげてみました。
いずれも家族が心配するような状況です。
釣りとバイクに関してですが、どちらも確かに危険な要素を含んでいます。
家族の言うことはもっともかもしれません。

しかしここで心配の中身に目を向けてみます。
釣りの場合は海に転落する可能性。
バイクでツーリングする場合は1人で事故に合う可能性です。

この2つに共通することはなにか。
それは悪いことです。
どちらも心配する相手になにか悪いことが起こるという考えがあります。
これが心配の中身です。

何が言いたいかというと、心配の中身は常になにか悪いことであり、それは多くは起こらないということです。
つまり心配とはほとんどが妄想であると言うことです。
相手を思いやっているつもりでも、実は心配することは妄想していることとあまり変わりがないのです。

こんなことを書いてしまうと怒る人もいると思います。
なぜならば心配しているのは相手を思いやっている証拠だからと心配している本人は思っているわけです。

このように反論する方のほうが、実は大多数なのかもしれません。
私も以前はそのように考えてしました。
心配は相手を思いやる気持だと。

しかし今では否定します。
なぜならば心配していることが現実に起こってしまったときは、心配している人は心の中で「やっぱり見たことか」とほくそ笑んでいるからです。
私の心配した通りだね。だからやめとけと言ったのにと心の中で高笑いをしているのです。
つまり心配した出来事が起こったときは、心配した相手を高みの見物をしてある種の優越感を味わっているのです。

我ながらなんてひねくれた解釈だろうと思います。
ですが事実はそうであるのです。
なぜならば私が心配性であったからです。
誰かに心配したことが実際に起こってしまったとき、私は相手を高みの見物をしていたのです。
本当に恥ずかしいことだと思います。

ですから私は今では心配しないことにしました。
心配は妄想であり、ほとんどが起こらないことです。
心配するだけ無駄なのです。

代わりに私が心がけていることは心を配ることです。
心配と何が違うかというと、心を配るというのは相手のことを尊重するということです。
相手を尊重し、信じ切るということです。
相手が為すと言ったことに対して、いちいち自分の考えを張り巡らさず。
ただ相手が相手のままであり続けることを肯定するだけです。

そうすることで自分は安心して相手を待つことができます。
もちろん幼い子どもや初めてなにか手掛けることがある人には、少しだけ手伝いをします。
干渉しすぎないように、ただ手すりになる程度にお手伝いはします。
あとは放っておきます。
それだけで相手はうまくやってくれます。

心配することは相手を思いやっているように思えます。
相手の身を案じている証拠なのかもしれません。
しかし心配の中身の多くは妄想です。
なぜならば現実には起こりそうにないことをあれこれと思い浮かべているからです。
ですから心配という妄想はやめたほうが良いでしょう。
代わりに心を配ること、つまり相手を尊重して信じ切る。
それだけで自分は安心することができます。


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