見出し画像

"大学生"って何なんだ??

終電間際の中央線。
慶應ソッカー部の奥山大の部員ブログを読み終える。
西へ西へと走るオレンジの電車に揺られながら、ふと考えた。


"大学生"って何なんだ??


何のために大学受験をして、高い授業料を払ってまで大学に通っているのだろう。

勉強するため?部活をするため?遊ぶため?

結論は、自分を守る肩書きを作るため。

そう感じてしまう。


大学生の本業は学業である。
これは言うまでもない。

ただ、学業を優先できていない自分がいる。

授業中は居眠りしてしまうし、
課題はほぼ毎回締切ギリギリの滑り込み提出。

なんなら今日だって、「2限休講で1限しかないじゃん、これ行く意味ある?」なんて思ったりしていた自分もいる(授業はきちんと出ましたよ笑)。

部活や学連で毎日精一杯。
これって普通か?当たり前か?

多分違う。

毎日忙しく生活をしている僕のことがかっこよく映る人もいるらしい。
「自分がやりたいことを毎日一生懸命やってて偉いね」

でも、本当にそうなのかな、、、??

部活や学連は、大学生活を充実させるためのひとつの手段に過ぎない。
ただのオプション。

でも、学業を二の次にすることを表面上で正当化できてしまう部活とか学連って逆に怖い。
これを「普通」「当たり前」と考えてしまう自分もそうだけど、そう思わせてしまう周りの環境も怖い。

朝練の時は4:30の目覚ましでハッキリと目覚める自分の身体も、1限の時間に合わせてかけた目覚ましには全く反応しない、なんてことはよくある事だ。決して笑えないけど。

でも、これは世の中的によくある事だと思う。
別に自分が異常ではないとも思う。
本当はダメだよ。本当は。


確かに、"部活"は学生の間でしかできない。
でも、その競技種目ひとつひとつは別にいつでもできる。自分自身の身体さえあれば。

学生だけじゃなくて、仕事をしている社会人でもできる。
それは今年、ア式蹴球部が社会人リーグに参戦し、社会人サッカーというものを目の前で見てきたからこそはっきりと言える。
仕事との両立。限られた練習時間。キツいと思う。でも、彼らはプレーし続けている。
中にはプロになりたくてなれなかったとか、プロで長くやりたかったけどやれなかったとか、サッカーへの未練を捨てきれずに社会人になってもプレーしている人はいる。
でも、プレーしている人全員に共通して言えるのは、サッカーが大好きなんだなってこと。

でも、彼らの生活のメインは「仕事」であり「家庭」である。
そこは多分ブレていないと思う。

部活は、学生が保有するひとつの特権だ。
でも、あくまでオプションであり、メインではない。メインにしてはいけない。"学"生だから、学ぶことがメインにならなきゃ。「部活を通して学ぶことだってできるじゃないか!」と言う人もいるだろう。確かに分かるけど、それって事の本質を捉えられていないというか、自分を正当化する言い訳に過ぎないと感じてしまう。

てな事で、自分はもっと勉強頑張りましょう。笑


高校までは、自分たちがたどるべき道が大人によってきちんと示され、どこまでも続く敷かれたレールの上を突っ走るだけだった。それでよかった。管理が行き届いた世界でのびのび生活していたんだ。
「管理」と言えども自由がないわけではない。「管理の中での自由」と言うべきだろうか。

高校までの生活は、ある意味「塗り絵」だ。
ある程度のレイアウトが既に定められていて、それを何色に塗り上げるかは自分次第。そんな生活だろう。

でも、大学は1枚の真っ白な画用紙を「ほいっ」と渡されただけ。その画用紙には何を書いてもいい。書かなくてもいい。破いたっていい。それが大学生活なんじゃないかなと。

「普通」や「当たり前」は存在しない。レイアウトもない。何でもいい。
でも、多くの人はそこに「普通」や「当たり前」があると思い込んでいる。
そこに大きなギャップがあるのだと思う。

そう、
大学での4年間は、「普通」や「当たり前」を疑うためにある時間なんじゃないか。

だから、
レールの敷かれた人生を歩んできただけだった若者が、
自由で正解のない不完全な社会の中に放り出されて、
世の中に埋もれている「違和感」をまずは感じ取ること。見つけ出すこと。
そして、「普通」や「当たり前」を疑い、それを改善するためのアイデアを形にすること。
これらが、これからの社会を生きる自分たちに求められていることだと思うし、そこを大人は評価しているのだと思う。


そんなことを考えていると、また新たな疑問が生まれてきた。

貴重な大学4年間を捧げてまでやる大学スポーツって何なんだ??

いわゆる存在意義、レゾンデートルってことになるとは思うんですけど。

大学での4年間が、「普通」や「当たり前」を疑うためにある時間だとすると、大学スポーツはどうあるべきだろうか。

大学スポーツにおける「普通」「当たり前」とは。
もしかしたら、「大学に行けばプロになれる」「体育会に入れば就職で有利」といったことになるのかもしれない。

例えば、プロサッカー選手になりたくて大学に入る人はもちろんいる。いっぱいいる。でも、実際にプロサッカー選手になれるのはほんのひと握り。夢を追い続けてきたけど、それが叶わなかった人はたくさん見てきた。
でも、こうも考えることができる。
プロサッカー選手というひとつの限られた夢に自分を縛りつけるのではなく、社会に出てみて、もっと大きな夢を追い続けるのもいいんじゃないか。サッカーという狭い世界に自分を閉じ込めるのはなんかもったいない気もする。もっとできるとも思う。
だから、そういうものに目を向けてみるのもいいんじゃないか。大学生活をそういうチャンスにできないか。

選手じゃない自分がこんなことを言うのもおこがましいけど。

事実、大学スポーツのシーズン終了が迫ってきている。
大学スポーツのシーズン終了とは、華やかな成績に花を添える瞬間でもあり、
たくさんの選手の夢が打ち砕かれる瞬間でもある。

それは選手じゃない自分でもよーく分かっている。

でも、別にこれは部活生に限った話ではない。
就活に失敗したとか、なりたい職種に就けなかったとか、多くの学生の夢も打ち砕かれる。

だからこそ、後悔のない大学生活を送ることって本当に大事なことだなと。
一学生が何を言ってるんだって感じですけど。笑笑

決めました、今更ですけど。
僕は後悔のない大学生活を送ります。笑

4年生の部員ブログで多くの人が綴っている、大学生活への後悔。
「あの時〜〜していればよかった」「もし〜〜だったら」
そういう未練を残したまま大学を卒業する。
そうはなりたくないな。

今この瞬間、それに気付けたことは幸せなことかもしれない。
そのきっかけとなってくれた奥山大くんのブログには感謝です。笑


自由で正解のない不完全な社会をどう生き抜くかは自分次第。

早稲田大学に入学できたことで保身に走るのではなく、
早稲田大学の学生であることをひとつの武器にして常に攻めの姿勢を貫きたい。

あ、これもドライブじゃないか。笑



そんなこんなで時計を見てみるとAM3:00。
これは決して「普通」ではない。笑

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?