上海 2004 回想 Part 2

タクシーから降りて
鉛色の空に一瞥すると陽は西の地平線に落ちようとしていた。

最近は衡山路付近に住居を構える
Mr.陳(仮名)に頻繁に招かれる。
麻雀の面子の埋め合わせというか、私は彼の過去の栄華を知る、数少ない人間だからというのが本当のところだろう。

時折、呼び出しては昔話をする事で、心の平静を保っているのだろうと、私は勝手に解釈していた。

私が上海に来たのもMr.陳がきっかけだった。彼はニュージーランドのオークランドの一等地で中華料理店を経営していたのだが、私はその店の客で、店主と客の間柄だったが。。
その話はいずれ。

この辺りは南青山の裏通りのような洒落たカフェが立ち並ぶ、高級住宅街だ。
約束の時間まで1時間以上あった。
どこかカフェで時間をつぶそうと思い、歩き始めて程なく交差点の角に威風堂々とした建物が目に付いた。

いつもは、衡山路の中ほどでタクシーを降りるので、この立派な建造物を目にするのは初めてのことだった。

その建物の中には、大勢の人々が談笑する様子が見えた。
教会のようだ。ここが有名な上海国際礼拝堂か。。と思った瞬間、今日がクリスマスだということに思いが至った。
異国で単調な日々を暮らしているとイベントに対する観念も遠い物となっていた。

建物を覆い尽くすように這うツタが、別世界への誘いのような厳かな雰囲気を発している。

礼拝堂の中に足が自然に向かった。
礼拝など自分らしからぬ殊勝な行動に戸惑いも感じたが、濃霧の先に漂流する未来への不安を打ち消したかったのか、健康不安がそうさせたかはわからない。

人々の合間を縫うようして、足を踏み入れた。

礼拝の時間には早く、中央の祭壇には、もちろん牧師様の姿はない。
空席の目立つ椅子を見回して、端の控えめな席に腰を下ろすと安心感に包まれる。外界と隔てる特殊な空気感があった。

何を祈ったのか今となっては思い出せない。あるいは思い起こせば、いつだって神頼みの危うい道のりだったかもしれない。

私はどこから来てどこへ向かうのか。人の身体は服のような借り物で内面の精神、スピリチュアルが別に存在して生まれ変わるreincarnationという研究がある。

自分は凡人なので前世の記憶など及びもつかない。今の人生に必死にしがみついている。

繰り返し打ち寄せる潮騒の如く受け継がれていく生命の育みの中で、自分はわずかな歯車でしかないという意識は、この頃には持ち始めていた。
それならば、流されるままに生きていくのも良いか。。
遷り変わる世の中の片隅で、ささやかに生きていこうかなど、そんな風に考え始めていた。

すでに麻雀で相手を打ち負かしたいなどの考えは、まったく無くなっていた。配牌を"誕生"と捉えるならば、ツモで変化していく手牌がどこまで醸成するか。
対子場かな、荒れ場だから、あがりを急いで打点が低いとむしろ牌勢が落ちるか。。
ツモに歪みがあるから、そろそろ打ち込みになるな。。
とかそんなことを、ただ推し計りながら
打っていた。

自然の営みと麻雀を重ねていたと言えば、大袈裟かもしれない。

療養中の厭世観が、そんな気分にさせたのだろうか。


続く

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