見出し画像

9割は周りのせい ~Vol.0~

この本題に入る前に自分の原点について書いておく。
ただただ自分が歩んできた道のりを記述しているだけである。


私の幼少期

福岡県の田舎町で生まれ、ポケモンとドラゴンボールが大好きな典型的な幼少期を送った。祖父の兄弟が10人近くいて、正月の集まりにはいつも多くの親戚が家を訪れ、たくさん遊んでもらったことを今でも覚えている。

サッカーとの出会い

小学2年生の冬休み、いつものように昼まで寝ていた。共感できる人も多いと思うが、例え目が覚めていてもベットから起き上がることが難しいのだ。そういったわけで、ベットの上で何をするわけでもなくゴロゴロしていると足元に抱き枕が移動していることに気づく。

その足元にある枕を取るために足で枕を挟み、自分の胸もと目掛けて投げたところピンポイントで私の胸もとに来たのだ。

「俺にはサッカーの才能があるのかもしれない」

そう思い、親にサッカーがしたいとお願いし、地域のサッカークラブに練習行ったことが私とサッカーの出会いだ。私と同じ理由でサッカーを始めた人は聞いたことがないので、もしいれば教えて欲しい。

小学校でのサッカー

「サッカーはあまり好きではなかった」

それはそうだろう、そんな気持ちで入ったやつがあんなに走りまくるスポーツに適合できるわけがないからだ。そんなわけでGKというポジションにすごく魅力を感じた。ボールを止める楽しさ、監督やコーチ、チームメイトに褒められるのが嬉しくてどんどんのめり込んでいった。

私のサッカーのきっかけに一ミリも関与していないが、私には6つ上の兄がいる。彼もサッカーをしていたので彼が休みの時は私がGKをし、彼がシュートを打ってくれていた。

後から父から聞いたのだが、私は兄を煽るのがうまかったらしく、
「そんなシュートしか打てないのか」「小学生にこんなに止められて悔しくないのか」と言い、兄に本気でシュートを打たせていたらしい。

中学生の本気のシュートを受けていたので、小学生のシュートを怖いと思ったことは一度もない。そんなわけで小学5年生から試合に出て、6年生の時にはキャプテンをしていたのだろう。


中学生の私

中学校はそのまま地元の中学校へ進学。友達も変わらなかったため友達作りには苦労しなかった。

サッカーをより高いレベルでしたいと思い、Jリーグのジュニアユースとセレクションに参加するも落選。家から車で30分離れた街クラブに通うことになった。

レベルの高いサッカーを知る

求められることが大きく変わった。小学校までは止めることがGKの役割、止める練習だけすればよかった。

しかし、2014年W杯でドイツのGKマヌエル・ノイアーがブレイクしたことで、GKもFP同様のプレーをすることが求められた。幸いにも私が所属していたクラブでは、私が入った2013年時点からGKもFPの練習を強要していたので多少のアドバンテージがあった。

しかし、小学校まで止める練習しかしていなかった私にとって、FPの練習は苦痛と感じることが多かった。

遊び中心の生活

サッカーは毎週水・金の練習、土・日の試合or練習だけだったのでほぼ休みだった。大半の友達の学校の帰り道に私の家があったことから放課後の溜まり場になっていた。

家でゲーム、近くの公園でバスケ、プロレスごっこなんかもした。また、私の中学時代(2013年あたり)は多くの中学生がスマホを持ち始めた時期だ。みんなで対戦や協力プレイなどをして楽しみ、チームの練習外でサッカーの努力をしていたとは言い難かった。

自分の夢が変わる最初のターニングポイント

こんなに遊びばかりの生活だったのに、一丁前に将来の夢は「プロサッカー選手」だった。中学1年生の時に40人2クラス制をとっていたこともあり、学校はかなり荒れていた。喧嘩は日常茶飯事だし、ほとんどの生徒が授業中に飴やガムを食べていた。

2年の時に3クラスになり、新しいクラスになる。当然、1クラスの人数が少なくなることで荒れを緩和させる意図もあっただろうが、それ以上に新しく入ってきた二人の先生が学校を大きく変えてくれた。

当時、体罰が問題になり始めていた時に、それに引っかからないギリギリのラインで指導をしていたと今考えると思う。その上に、「真面目にちゃんとやることがカッコ良い」という風潮に変わっていった。

「学校を変えた先生」に大きな憧れを抱き、私の夢が「教員」に変わった。
それによって、教育やコミュニケーションの視点で考えることが増えていった。

高校生の私

中学まででサッカーを辞めるつもりだった。もしくはしたとしても公立高校でお遊びレベル。毎日送り迎えしてくれた親に申し訳ないという気持ちが強かった。

それを当時の担任に伝えると、私と真逆の発想だった。

「高校で本気でサッカーしなかったら、親がお金出してくれた中学3年間が無駄になるじゃないか」

これに妙に納得した私は、唯一オファーをいただいていた私立高校の練習会に参加することにし、そこに進学先を決めた。

友達作り

中学校のクラブチームに初めて練習会にいった時と似た感覚を思い出した。不安と緊張が交わったあの気持ちは誰もが体験したことがあると思う。

その学校の特進クラスに在籍していたので、クラスのサッカー部は5人だけ。そしてその他サッカー部はスポーツクラスに所属しているという状況だった。

努力の大切さを知る

よくある手口かもしれないが、私がその高校を決めた一つの理由として「監督に大きな期待をされていた」ということだ。入学前に監督は「君が入れば一年生からスタメンで起用して、3年生にはキャプテンをしてもらいたいと思っている」と言われた。

騙された?それとも期待外れだったのか?

自分が三年生の試合に出る雰囲気は全くなく、それを認めようとしていた自分になんか腹が立ってきた。

多くの人には言ってないと思うが、1年から試合に出たいとは自分で言っていた。自分の恩師であるGKコーチと、一年生の時に良く面倒を見てもらった三年生の先輩はそれを信じて鼓舞してくれた。

この言葉と共に、コーチは夜の9:30まで練習に付き合い、学校から1時間離れた私の家まで車で送ってくれていた。

最初はその煽りに、ノリで「帰るわけないでしょ〜」とか言って残っていたが、遅くまで自主練に残ることが習慣化されていった。

実際に「1年から試合に出て、有言実行!」とはならなかったが、高校1年間が終わった時に中学1年間の成長度とは比べ物にならないくらい自分が上手くなっているのを身をもって感じたのだ。

遊び中心の中学時代からサッカー中心の高校時代となった

サッカーは高校で本当に終わり

これだけは決め、「親」と「恩師のコーチ」のために努力を続けた。

公立高校に一般で受かるほど学力も無く、あくまでサッカー中心の3年間だったため、家で勉強することはテスト前の部活が休みの日以外はしていない。

そのため、公立高校推薦を狙って、一番前の席で意欲だけを見せ、高校3年間オール5だった。

担任が変わった高校3年の春に新担任から「AO入試」を勧められる。聞いたこともない言葉に最初は戸惑ったがとりあえずやってみることとした。

これに奇跡的に合格し、北九州市立大学地域創生学群に入学した。私の高校からは初めての形での合格者となり、その年の主席扱いで卒業させていただいた。



高校3年で担任が変わらなかったら今はどうなってるんだろう。

中学の時に担任が変わらなかったら今はヤンキーやってるのかな。

あの時足元に枕がなかったら何のスポーツしてたのかな。


これを通して感じた成長や気づきをVol.1で振り返ります。


この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?