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見るのが100倍オモロくなる西洋美術史PART-4 〈ビザンティン美術〉

美術館に行って、何となく「ああ、キレイな絵だなぁ…」なんて眺めるのもいいと思います。美術館って雰囲気を楽しむ、みたいなところもあると思いますから。

でも美術史の知ると、これまで「なんとなく」見ていた作品が「分かる」ようになる。すると美術はグッとおもしろく、奥深いものになるんです。

このシリーズは時代順で美術史の解説をしていきます。ポイントはおさえつつ、できるだけ分かりやすい言葉で説明していきますので、気楽に読んでいただけたら嬉しいです。

ビザンティン美術

ギリシア美術→ローマ美術→初期キリスト教美術をこれまで解説してきました。

今回はビザンティン(東ローマ)美術。

330年にローマ帝国の都が東方に移って、ローマは東西に分裂したわけです。そして東ローマはビザンティン帝国として勢力を強めていきました。

そういう背景から発展していったのがビザンティン美術です。

ビザンティン美術はざっくり300年〜1500年くらいまでの東ローマで作られた美術ととらえてもらえれば良いかと思います。

そしてこのビザンティン美術は前期、中期、後期に分けられます。年代もザックリ…

初期 300年〜700年
中期 700年〜1200年
後期 1200年〜1500年

では初期、中期、後期のビザンティン美術の特徴を説明していきます。

初期ビザンティン美術

ビザンティン帝国の皇帝は政治だけでなく宗教の最高権力者でした。それが美術にも影響しています。

ビザンティン美術の代表作、サン・ヴィターレ聖堂のモザイク画を見てみましょう。


皇帝ユスティニアヌスのモザイク

時の皇帝は神とおなじくらい崇められていたので、宮廷儀礼式な雰囲気があります。人物像は様式的(デザイン的)で正面向き、左右対称、動きがありません。

これは精神的超越的な存在として描きたかったんでしょう。偉い、スゴイということを強調したかったわけです。

また自分の家でも礼拝できるようにと、イコン崇拝(礼拝用聖人画)が高まりました。

ウラジーミルの生神女


中期ビザンティン美術


作者不詳  15世紀頃

中期はフレスコ画が中心になります。
フレスコ画、よく聞きますよね。以下にフレスコ画の説明を記します。


フレスコ画とは

まず壁に漆喰を塗ります。その漆喰がまだ「フレスコ(新鮮)」つまり生乾きの状態のあいだに水または石灰水で溶いた顔料で描くのです。

やり直しが効かないので、高度な計画と技術力を必要としますが、一旦乾くと水に浸けても滲まないので保存に適した方法でした。

有名なフレスコ画としてはラファエロの『アテネの学堂』やミケランジェロの『最後の審判』などがあります。

ビザンティン美術中期のフレスコ画の特徴としては金地の背景に、黒くて深い輪郭線、中間色の省略、衣のひだの強調があります。

歴史的には700年~800年代に偶像破壊運動=イコノクラスムにより美術はいったん衰退するのですが、843年の宗教会議で偶像崇拝肯定派が正統であるとされました。

ただし、長年の論争の結果、神様のポーズなど絵の描き方のルールが厳しく決められてしまいます。

そんなわけで、製作者の自由が許されたのは服のひだをどう表現するかくらいになってしまいました。よってこの時代は衣のひだが腕のみせどころとなります。

後期ビザンティン美術

聖母の嘆き 1164

後期はちょっとずつ画家の表現が受け入れられるようになり、強い感情表現擬古典的(ギリシア美術をまねた)な人物表現で描かれました。

まとめ

■ビザンティン美術はローマ帝国の都が東方に移ったことにより生まれた東ローマ美術である。

■ビザンティン美術は前期・中期・後期に分けられる。初めは決まりごとが多かったが、しだいに作家の表現が強くなっていった。

というわけで、歴史の動きとともに作品の表現が生まれたり、変化していったりしたわけです。

時代背景をとらえると、作品の奥深さを知ることができると思います。


最後まで読んでいただきまして、本当にありがとうございました!